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青木繁
日本近代美術史論
高階秀爾
1972

 日本の美術界において、数少ない天才の1人に青木繁がいる。28歳で夭折したこの天才を、著者はこう評価する。

p127より
 普通、わが国の近代美術史の上では、青木繁は、明治の浪漫主義的傾向を代表する作家と言われている。たしかに、ある意味ではアカデミックと言ってよいような黒田清輝の洋画移入によってもたらされたいわゆる新派が、ようやく日本の洋画界の主流となろうとしていた時期に、青木繁は、天衣無縫な構想力を自在に発揮して、何人の追随も許さない詩情豊かな作品世界を生み出した。もし、何ら出来合いの規則にとらわれない自由な発想を浪漫主義と言うなら、たしかに青木の絵画世界は浪漫主義的と言ってよいだろう。しかし、歴史的に見るなら、青木のあのどこか幻想的な華やかさを秘めた画面の背後にあるものは、1830年代の西欧ロマン主義ではなくて、それから半世紀後の世紀末的雰囲気であったように思われる。事実、西欧の世紀末芸術の特色である華麗な幻想性と知的好奇心の共存、神秘主義、象徴主義への傾斜、異常なもの、グロテスクなものに対する興味、病的なまでに鋭敏な感受性、物語趣味と歴史趣味、装飾的なものへの憧れ等は、いずれも青木のそれほど多いとは言えない作品世界にはっきりと認められるものであり、さらには、あまりにも優れた才能を抱きながら、それ故に世に容れられず、放蕩の生活に溺れて不遇な短い生涯を送ったというその経歴まで、彼は、世紀末の多くのデカダンの芸術家を思わせるものを持っていたのである。
 その意味で、青木繁は、黒田清輝と対照的な気質の芸術家だったと言ってよい。黒田がきわめて堅実な優等生型の努力家であったとすれば、青木は奔放無頼の天才型の作家であり、黒田がフランス留学以来、着実にその社会的地位を固めて華々しく活動し、多くの栄誉にかこまれて天寿をまっとうしたのに対し、青木はまるでわざとのように放蕩の生活を続け、世間的には失敗の連続でついにまだ30歳にもならないうちに、九州の病院で淋しくその生涯を終えた。それだけに、青木の周囲には、虚実とりまぜてさまざまのエピソードや伝説の網の目がはりめぐらされ、彼の存在そのものまでがほとんど伝説的なものになっている。このことも、浮いた話ひとつない黒田の生涯と正反対である。
 青木は、ギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌのようなフランス象徴派の作家やバーン=ジョーンズのようなラファエロ前派、そしてラファエロ前派が好んだイタリア・プリミティフ画派に強く影響を受けている。当時日本に定着しはじめた印象派の画家については、もちろん存在を知らなかったわけではないが、ほとんど興味を示していないのだ。

p131より
 青木のように人並みはずれた、ほとんど異常なまでに鋭い感受性の持主にとっては、たとえ現物に接することがなくても、複製や画集によって自己の魂と共鳴する魂をこれら世紀末の画家たちに見出すことは、おそらく容易なことだったであろう。(中略)青木は西欧から遠く離れた日本にずっといたままであったからこそ、モローやシャヴァンヌのような古典派の作家たちのなかにさえ、世紀末のデカダンスの香りを感じ取ることができたのである。
 本書は、ここで青木繁が東京の友人に向けた書簡を紹介している。女の水死人の話から、終日降り続ける雨の描写に至る箇所である(長文のため引用せず)。ボルヘスのように現実と幻想が錯綜し、頭の中がぐちゃぐちゃになっているような文章で、思わず戦慄を覚える。ほとんど病的と言ってよいほどの幻視家だった青木は、黒田のように「何か拵へよう」と思って苦労することはなかった。むしろ彼の場合は、あまりにも生々しい幻影を、どのように追い払ったらよいかということに苦心したように思える。









 もちろん、青木繁の芸術の根底にあるのは、単にこの病的なまでに生々しい幻影世界だけではない。彼は明確に理論的なものを求めていたのだ。

p140より
 梅野満雄の思い出によると、青木は困窮の生活のなかでも勉強することを止めず、上野の図書館に通って日本の古典や仏典などを読んでいたという。その頃彼は、「僕が駒込を離れることが出来ないのは上野の図書館があるためだ」と語っていたというが、事実彼は、若い頃から、驚くべき読書家であり、該博な知識の持主であった。


 おそらく生涯最大の傑作である「わだつみのいろこの宮」(上)の背後には、このような深い教養があったと思われる。青木はこの他にも、日本の記紀の神話やインドの外道諸教派に題材を求めた作品を数多く残した(「黄泉比良坂」や「大穴牟知」など)。さらに、夏目漱石は『それから』のなかで、「いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思つた。つまり、自分もああ云沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである・・・」と青木の「わだつみのいろこの宮」に触れている。

p143より
 むしろ、ある意味からすれば、神話や伝説の物語は、彼の異常なまでに奔放な幻想に養分を与えるものであったと同時に、造形表現においては、色彩の無限の展開のなかに溺れてしまう危険を持つコンポジションを救ういわばブレーキの役目を果たしたと言ってよい。
p145より
 事実、この「わだつみのいろこの宮」は、「海の幸」に比べれば、はるかに理知的な構成と内容を持っている。そのため、一般にはやや冷たい表現として受け取られ、「海の幸」よりは一段と劣るものと見なされているようであるが、その構図の緊密度においてまた色彩表現の華麗さにおいて、そして何よりもその表現の完成度において、むしろ「海の幸」を凌ぐ名作と言ってよい。しかも、画面全体をすっかり塗りつぶしてしまったようなその装飾的表現と、異常に縦長の画面という風変わりな構成と、当時呉服商を営んでいた福田家から借りて来た多彩なちりめんをモデルにしたという幻想的色彩において、それははっきりとギュスターヴ・モローなどの世紀末当時の世界につながるものなのである。


 最後に青木の生い立ちと生きた時代に触れる。彼は1882年、北九州の久留米において、旧有馬藩の士族であった家の長男に生まれている。これは何を意味しているのか。

p148より
 世紀末の芸術家にしても、あるいは耽美主義的ディレッタントにしても、当時の市民社会に対して背を向けること、すなわち反社会的な生活態度をとることを大きな特色としていた。(中略)だが、明治15年に生まれた日本のエリートにとっては、社会的責任を免れるということはほとんどできない相談であった。デカダンスは、ヴィクトリア朝末期や第三共和制の盛期のように、文化の爛熟しきった時代においてこそ可能であっても、あらゆる能力が「お国のために」吸収されるという体制ができ上がっていた明治時代の日本においては、芸術家といえども社会に対する責任を免れるわけにいかない。ましてその上、士族の家の長男に生まれ、大勢の弟妹たちがいるということは、それだけで、家族というものに対する責任も負わされることであった。そして、わが青木繁の場合は、まさにその典型的な事例だったのである。
p149より
 青木繁の場合は、『それから』の代助のように恵まれた境遇にいるわけではなかった。彼は長男として、父の死後全家族の面倒を見なければならない立場であり、しかも家庭も、自分自身も、貧困に悩まされ続けるという悪条件のもとにあった。彼は、一面においては「ダ・ヴィンチのような作品が一枚でもできれば死んでもよい」と考えるような芸術至上主義者であった反面、勃興期の明治人にふさわしく社会的な抱負を持っていたし、家族に対する責任も強く感じていた。
 彼は「『わだつみのいろこの宮』に就て」という論文中、芸術一般の社会的役割について「彼地(西欧)は種々の時代を経過して一歩一歩進み来つて今日に及んだもの日本は未だ前途に隆興期なる一つの高峻な峠を控へて居る事を忘れずに大なる抱負と努力とを以て大国民たるに恥ぢぬ品性と威厳とを有つ様に心懸けねばならぬ」という、デカダン派らしからぬことを述べているのである。
 著者はここに、青木繁という一個の天才の限界を見る。彼は、あらゆる意味で世紀末的特質を備えた芸術家でありながら、およそ世紀末的でない近代日本に生まれて来てしまったのである。天才児青木の生涯は、やはり日本の近代化が生み出した特異な悲劇にほかならなかった。
黒田清輝
日本近代美術史論
高階秀爾
1972

 森鷗外の小説『妄想』に以下のような文がある。
 自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持つて帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持つてゐる積りである。併し帰つて行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分は fatalistischな、鈍い、陰気な感じに襲はれた。
 鷗外のこの述懐には、自分がドイツ留学において持ち帰った「萌芽(医学)」がついに育たなかったということに対する悔しさばかりでなく、かえってそのために他人の妬みを買って人生につまずかされたという苦々しさも感じられるが、しかしそのような個人的感情は別として、明治時代に洋行して、故国に帰るにあたってこのような不吉な予感を抱いたのは、ひとり鷗外だけではない。


 こないだからひらけてをるちいさなきようしんくわいに六まいほど絵をだしてをきましたらある三つ四つばかりのしんぶんににつぽんじんのくろだといふやつがせいよう絵をかくだのなんのかのとありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしはせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです だがしかたはございません につぽんへかへつてからてがさがらなければよいがとおもつてをります せいようじんにまけんようにやろうといふのはむづかしいもんです せいようじんは一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんはながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんにもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします・・・
 上は明治26年、9年間にわたるフランス留学生活から日本へ帰るとき、黒田清輝(当時28歳)が養母貞子に宛てた手紙である。留学中、有名な「読書」を描き上げた若き黒田は日本の帰るのが無念だったことだろう。この危機意識は&#40407;外のものと異なる。黒田が目指したのは、医学のように普遍性を追及する「科学」ではなく、およそその土地の風土から容易に切り離せない感受性に依存する「芸術」なのだから。「もう四五ねんもこつちにをつたならすこしはせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです」と言う黒田は、フランスの生活の中に入り込んで、その雰囲気の中で小さいながらも自己の才能の萌芽を認識していたに違いない。

p84より

 もちろん、日本に帰るにあたって、彼は彼なりに抱負も自信もあったに違いない。そして、鷗外の場合と違って、帰国後の黒田清輝は、世間的には成功と栄誉の連続であった。
 (中略)しかし、世間的な栄光はともかく、芸術創造の面においては、黒田自身の成し遂げたことも、あるいは黒田に始まるいわゆる「新派」の勝利も、決して黒田の意図を実現したものではなかった。余人は知らず、少なくとも黒田自身は、その華やかな栄光の陰で、ある種の空しさを噛みしめていたはずである・・・
 私にそのように思わせるものは、後に見るように晩年の黒田がしばしば自分の仕事に対して苛立たしげな口調で語っていることばかりではない。晩年の黒田の作品に、時に不気味なほど暗い絶望の影が稲妻のように浮かぶことがあるからである。
 黒田は明治19年5月から、ラファエル・コランのもとに弟子入りをして絵画の修行に励むようになった。黒田がコランに学んでいた1880年代後半から90年代前半にかけての時期はちょうど印象主義が官学系のアカデミズムに取って代ろうという歴史の転換期だった。

p92より
 黒田とコランの出会いによって、コランの折衷的な外光派アカデミズムが日本にもたらされたという通説は、少なくともふたつの点で修正を必要とする。第一に、黒田がコランに学び、コランを通じて日本に移植しようと思ったものは、印象派の影響を受けた折衷的な外光描写などではなくてもっと基本的な西欧絵画の理念、もう少し具体的に言えば、はっきりした骨格と明確な思想に支えられたコンポジション(構想画)としての絵画という理念だったことであり、第二に、しかしその西欧絵画の理念は、日本にもたらされた時、その骨格と思想を失って断片的、感覚的なものに変貌して行ったということである。
 (中略)伝統的なアカデミズムの絵画理念が断片的、感覚的な外界描写に変貌して行くその過程は、近代的な小説理念が、日本において、いつしか身辺雑記風な私小説に変質して行くのにほぼ対応している。
 この絵画観については、明治29年に東京美術学校に西洋画科が設置されることになり、その主任教授に迎えられた黒田の抱負を読むとよくわかる。
 この洋画科は都合四年の学期で第一年は石膏物の写生第二年は人物即ち裸体等の写生此二年は木炭で第三年に至り油絵を習はせ第四年を以て卒業試験に充てる。
 絵画に於ける脳裏の教育即ち人物の置き方、光線の取方、色の配合など其想像力を養ひつつ絵を教へて往くには勢ひ課題が必要、殊に歴史画なる時は其想像力を及ぶ限り広げることに便利が多い。そこで三年生になれば毎週一回位宛歴史画の課題を与へて脳裏の教育をする積りです。
 歴史画を課題とすればとて、何も歴史画を重んじての訳ではない。仮令ば智識とか、愛とか云ふ様な無形的の課題を捉へて、充分の想像を筆端に走らする如きは無論高尚なことなれど、二三年やつた位の処では出来そうにもない。其れよりは先ず相当な歴史画を将つて、其課題とするのが至極稽古中に適すると思ひます。
p95より
 つまり、彼は、写生やデッサンは絵画表現のための必要な基礎であって、それに加えて「脳裏の教育」すなわち、構図、明暗、色彩配合等を含めて全体の構想をまとめるのに必要な「想像力」を養うのが肝要だというまっとう過ぎるくらいまっとうな意見を持っており、そのためのまず第一段階として写生を勉強させようと主張するのである。
 この黒田の抱負には、「仮令ば智識とか、愛とか云ふ様な無形的の課題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす」ことこそが、絵画の最も高尚なるものだという思想がうかがわれる。レアリズムどころか、まったく正反対の絵画観である。「はっきりした骨格と明確な思想に支えられたコンポジション」を作り上げるという理念こそ、黒田が日本に移植しようと試みたものである。





p98より
 しかしこのようにして黒田が的確に捉えた西欧絵画の理念を日本に移植することは、決して容易なことではなかった。もともと西欧においては絵画の本道と見做されていた寓意画というジャンルが日本においては遂に発展しなかったことを思えば、「思想を持った絵画」を日本に根づかせることは、きわめて困難な事業であった。
 (中略)黒田にとっては、新派と言い旧派と言うも、所詮は技術上の問題であって、日本の洋画の根本理念にかかわるものではなかった。むしろ彼は、人びとがあまりにそのような技術的問題にかかずらわって、精神的骨格を無視しているかのように思われるのが何よりも不満であった。
 黒田のこの態度は明治36年の『美術新報』に掲載された「日本現今の油絵に就て」と題する彼の談話にはっきりと表れている。
 ・・・わが洋画家が近来の作品を実見しかつ其挙動を窺うのにイヤ紫色がどうだとか、或は黒っぽいの白っぽいのとわけも無く騒ぎ廻って、その色の如何によつては彼は新派なり、彼は旧派なりなどとの名称を下しているが、僕などはそんな解らない馬鹿げた話は無いと思つている、否な思つている所ではない、こう云ふ頭脳の連中が沢山なのだから、いくら日本に於ける洋画の進歩発展を図るの促すのと云つたって、却々大抵のことでは無い、余程しつかり遣ら無くっては駄目だ・・・外形を装飾せんが為めの色の遣ひ方のみに気を揉んで、其画の根底たる精神と云ふ事に就て余り深く顧る者の多からぬのは、僕等の大いに憂ひとする所である・・・
 黒田がここで「画の根底たる精神」と言っているものは、主題や構図や意味内容を含めた広い意味での「コンポジション」と呼ばれるもので、パリ滞在時代の「朝妝」をはじめ、帰国後制作された「昔語り」や「智感情」のような大構図の作品である。





p104より
 しかしながら、黒田のそのような努力にもかかわらず、彼の意図した西欧的構想画は、ついに日本には根づかなかった。それは、ひとつには黒田自身、人並み優れた理解力と描写力を持っていながら、構想力において欠けるところがあったという理由によるものであるが、しかしそれ以上に、日本の画壇にその種子を育てる精神的風土が、&#40407;外の言う「雰囲気」がなかったからである。黒田の試みの挫折と彼自身の作品の微妙な変質とは、この日本的風土がもたらしたものだったのである。


 黒田の転機はあの有名な「湖畔」だと理解する。モデルとなった照子夫人の回想によると、「下絵も何もなくぶっつけにカンバスに描きはじめました」とある。「湖畔」の2年後、1899年の「智感情」が1900年のパリ万国博覧会において銀メダルを獲得した。しかし、彼の努力がフランスにおいて認められたころには、次第に彼は「思想的骨格」を備えた構想画を捨てて、身辺雑記的(私小説的?)な自然描写に移っていく。いわゆる折衷的な外光的アカデミズムというものは、このようにして生まれて来たのである。つまり、近代日本の風土が黒田を「折衷的な外光的アカデミズム」の画家に仕立てあげたというのが、著者の認識である。

p113より
 黒田自身は思想的骨格を持ったものこそが本来の絵画だと考えていたに相違ない。それならばこそ、単に「色の調子や組立や画き方にアッサリ愉快を感ずる」だけの自分は、結局「画かきとして甚だ無能なもの」という自嘲的感想が出て来るのである。事実この感想は、単なる謙遜ではなく、ある程度まで正直であったろう。別のところでは彼は、自分の絵はすべて「一種のスケッチだと云へば云へないこともない」と言い切っている。西欧の近代小説の理念が、日本にもたらされた時いつしか変質して私小説を生みだし行ったように、西欧の伝統的絵画理念は、日本にもたらされた時、いつしか変質して作者の周囲を断片的に写し出しただけのスケッチを生み出すことになってのである。


 大正5年、『美術』創刊号に寄せた一文で、「私自身も、今迄殆どスケッチだけしか拵へて居ない。之から画を拵へたいと思ふ」と黒田は残している。この一節は、何とか西欧の伝統的芸術理念を日本に移植しようと努めながら、いつの間にか日本的風土にがんじがらめにされて挫折してしまったひとりの先駆者の自分自身に対する憤りを感じる。黒田は、その8年後に亡くなっている。絶筆となった「梅林」は、自己の運命に対するこの芸術家の最後の闘争であった。

p86より
 この作品は、決して功成り名遂げた芸術家の悠々自適の心境を反映しているものではない。激しく捩じれる梅の樹枝や、画面に絵筆を叩きつけたようなダイナミックな筆触、そして何よりも、印象派の感覚的表現とも、フォーヴの色彩礼賛とも違うその表情豊かな色彩表現は、この絵の作者の心の中で何ものかが激しく荒れ狂っていたことを雄弁に物語っている。それは、何らかの意味で外部の世界を写し出したものではなく、むしろ作者の内部の怨念のようなものを吐露した妖しい迫力を持つ名作である。
高橋由一
日本近代美術史論
高階秀爾
1972



p13より
 重要なことは、「花魁」の画面の持つそのような平板さや、西欧的なヴァルールを無視したような色彩の並列が、決してただ油絵技法の習得の未熟さによるものではなく、逆に油絵本来の感受性とは異質の感受性によって強く支えられていることである。(中略)だが、西欧的な意味からすれば「破格な」その画面に、私は紛れもない自分自身の感受性に呼びかける何かを感じ取った。私が「花魁」の前で味わった新鮮な感動は、「迫真的な写実性」以上に、私の内部に眠っていた「歴史」に対するその呼びかけの強烈さに由来するものであった。明らかに私は、「花魁」のなかに自分の同胞を見出していた。いや自分自身のなかに「花魁」の世界の存在を感じ取っていたのである。
 もちろん、「花魁」の画面にそのような強い共感を覚えるということは、その画面の持つ「破格な」表現が解消されてしまったということにはならない。それどころか、「花魁」の持つ「破格な」特性は、そのま増幅されて私自身のなかに再生させられた。もはや明治初年のある絵画作品のなかにではなく、私自身の内部において、歴史が大きな裂け目を見せはじめていたのである。私が「花魁」の画面に感じた違和感の小隊は、おそらく自分の内部の歴史のその亀裂の深さであったに相違ない。
p26より
 「花魁」の平板で装飾的な色彩配合は、ルーベンスのものでもなければドラクロワのものでもなく、むしろ浮世絵の色ーあえて言えば、ほとんど国芳や国貞のそれに近いものーである。むろん、この連想は主題から来るものではない。「花魁」の鮮やかな色彩がそれぞれおたがいのヴァルールの関係によって支配されない色、つまり端的に言えば空気の存在を知らない色だからである。西欧の油絵が空気の発見とともに登場して来たことを思えば、「花魁」の表現が「破格」であるのも当然のことと言えよう。
 空気の存在を感じさせないが故にいっそう「迫真的」とは、逆説ではない。見るものは、自分と対象とあいだに本来あるべき空気の媒介なしに、否応なく対象と直面させられる。そこには、ある種の目眩にも似た距離感の喪失がある。正常なバランスが失われ、あらゆる細部が同じような力で見るものに迫ってくる。著者の言う「迫真的」とは、この距離感の喪失に起因するものと考える。同じことは「鮭」や「豆腐と油揚」その他の静物画についても指摘できるだろう。これらの作品は、日常的な題材を極めて写実的に描きながら、われわれが知っている「そのもの」らしさ、つまり、親しみ深さを失っている。端的に不気味なのだ。ここでも高橋由一は、リアリズムを目指しながらいつしかリアリズムを越えてしまっているのである。





p28より
 由一芸術の頂点が「花魁」から「鮭」図連作を経て「豆腐と油揚」図等の日常の事物の表現に至る静物画群にあると見ることは、おそらく誰しも異存のないところであろう。ということは、年代にすれば明治5年から明治10年頃、せいぜい下って明治12年頃までの6、7年間のことである。「生レテ二歳」から筆を把って生涯絵画に身を捧げた由一にしては、意外に短い期間と言わねばならない。特に、晩年10数年間は、作品が残っていないわけではないのに、「花魁」や「鮭」に匹敵するほどの厳しい緊張感に満ちた表現にまで達しているものはついに見あたらない。
 著者はこの謎を追及する。由一が最初に西洋画(石版画)に触れた時期は、文久年間(由一が30代前半のころ)と推定しており、それは「オランダ渡りとは言ってもレンブラントの版画のようなものではなく、いずれ通俗的な三流作品であったに違いない」としている。この事情は、ちょうど同時期に、日本の「通俗的」浮世絵版画がフランスの印象派に影響を与えたのと似ている。由一が安物の「洋製石版画」に驚喜したというエピソードは、ゴッホが安物の浮世絵版画に感激したというエピソードとパラレルである。ゴッホも由一と同じように、通俗的な浮世絵について熱狂的に語り、おそらくは「忽チ習学ノ念ヲ起シ」て実際に浮世絵の模写を試みている。だが、当然ながら、ゴッホの作品は浮世絵の世界ではなく、西洋絵画の歴史のなかにこそその場所を持つべきゴッホ自身の世界であった。同様に由一も西洋画の世界を追い求めながら、実は自分自身の世界を作り上げたのである。
 由一が画学局に入学後まもなく掲げた有名な「的言」を要約すると、ヽ┣茲箸老茲靴特韻覆詬靴咾任呂覆て「治術ノ一助」となる実用的なものであること、△修里燭瓩砲鰐整鼎箟鷆瓩鯏確に表現することのできる「洋画ノ奇巧」を学ぶこと、である。

p37より
 由一の歴史的意義は、冬崖においては「まだよくこなれあわぬ二すじ道の出来事であった」美術と技術とをひとつのものとして受けとめたところにあった。しかしその由一にしても、美術と技術とがひとつになっている西欧のオーソドックスな油彩画を正面から受けとめたわけではなく、通俗的な三流石版画やあるいは西欧の絵画入門書を通じて学んだ洋画の表現方法を、伝統的な感受性によって受けとめていたのである。その伝統的な感受性というのは、ひとつには狩野派に代表されるような綿密な現実観察であり、ひとつには浮世絵版画に見られるような「平坦な色面」であり、そしてさらに、平賀源内や司馬江漢から受け継いだ実証的精神、いわば実学の伝統であった。

p38より
 江戸時代以来受け継がれてきた実学の伝統の上に西洋画の技法にもとづく写実表現を打ち建てるということは、その技法がまさに純粋の技法としてーすなわち感受性の伝統から切り離されたものとしてー受け入れられた時にはじめて可能となる。とすれば、由一が文久年間に始めて接したという西洋画が、三流の通俗的石版画であってレンブラントではなかったということは、むしろ由一にとって幸運であったかもしれない。
 つまり、レンブラントのように西洋の感受性と技法が高度に濃縮された作品に「最初に」触れた場合、それを純粋に技法の世界だけのものとして受けとめることは困難であったに違いないし、また、黒田清輝のように西洋の感受性そのものを移植しようと試みたのではないか。あるいは、岸田劉生のように西洋の感受性と日本の感受性との相克で悩むか。その点、高橋由一が実際にヨーロッパに行ったことがなかった、ということはある意味では正解だった。
 その由一が明治11年頃から急速に変貌していく。フォンタネージと出会い、はじめて西欧の油絵らしい油絵と直接触れたためである。

p39より
 あれほどまで油絵の技法に執着し、油絵の表現を求めた由一が、ようやく正当な油絵表現に触れることができた時から、その緊密な表現力を失って行くということは、驚くべきことのように思われる。しかしそれも、考えてみれば当然の成行であったのかもしれない。西欧の感受性の伝統に触れた由一は、もはや「花魁」に見られるような「破格な」表現に身を任せることができなくなってしまったからである。
 (中略)事実、晩年の風景画における由一は、「花魁」や「鮭」の由一に比べると、恰も神通力を失った魔術師のように見える。「花魁」や「鮭」の奇蹟はもはや二度と繰り返されることはない。日本の近代絵画は、良くも悪くもこの神通力を失ったところからあらためて出発しなおさなければならなかったのである。







 晩年の風景画とは、「不忍池」や「浅草遠望」、「宮城県庁門前之図」である。ここには遠近法を習得した「凡庸さ」だけがあり、著者が「花魁」において抱いた「違和感」はない。たとえば、由一が「鮭」のように縦長の変形の画面を描いたのは、「油絵が横では、床の間に掛けるわけにも参りません、そこで柱に掛けるように、あの頃は、よく細長い板に描いたものです(「高橋由一の鮭図について」/佐々木静一)」という、紛れもない自由さがあった。高橋由一の作品には、才気溢れた日本人が西欧に浸食された苛酷な事実を物語っているように見える。
 ただ、著者は最後まで「花魁」の謎(つまり「鮭」や「豆腐と油揚」に比べてなぜ「花魁」に惹かれるか)については論じていない。この謎そのものが「花魁」の魅力とも言うべきか。最後に、由一が画学局在学中に残した言葉を引用したい。とても気持ちの良い言葉だ。
 絵事ハ精神ノ業ナリ理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除去シ始テ真正ノ画学ヲ勉ムヘシ

映画・この不在なるものの輝き(2.視線劇の基本構造)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p20より
 見えてはいないものへのいらだたしい渇望としてある「批評体験」の歩みは、ある特定の作品の残像とのほとんど偶発的といえる遭遇によって啓発されるものでありながら、その足跡は目ざす作品自体の表面に刻まれるのではなく、いわば流動する無名性に還元されたいわゆる作品一般の海、それも水面ばかりではなく海底すら持ちえない海のさなかなのであって、だから、航跡をみずから消し去ることによってしか前進はありえないこの歩みは、襲いかかる存在の崩壊感覚を生の有限性のまぎれもない証としてうけとめ、それを苦悩や快楽とすり替えたくなる誘惑を排しつつ、これまた見えてはいないみずからの終息の地へとひたすら滑り続ける運動にほかならなくなり、いわば沈黙による沈黙への拒絶ともいうべきこの試みは、人間のありとあらゆるいとなみのうちで最も血なまぐさく、また狂暴な色調でいろどられているはずのものなのだ。
 この一文は気軽に読み飛ばせない。「批評体験」とは、個々の作品のみならず「作品一般」の「表層」においてのみあり、それによって被る崩壊意識は、決して過去のものではなく現在でもうずき続けている生傷であり、不断に更新されていく(「航跡をみずから消し去る」)ものである。この歩みが、「人間のありとあらゆるいとなみのうちで最も血なまぐさく、また狂暴な色調でいろどられている」のは、もちろんレトリックであり、それは「戦争」である。かの名言を思い出す。
 「映画は戦場だ。そこには愛、憎しみ、アクション、暴力、死がある。ひと言で言い換えれば"エモーション"だ」(サミュエル・フラー)



 ゴダールが『気狂いピエロ』でサミュエル・フラーに語らせたこの台詞、つまり戦争と映画のアナロジーは、あらゆる視線から逃れ、しかも視線そのものを無効にすることで実現されてゆく一つの行程として捉えられるべきものだ。なぜなら、戦場でもっとも危険なのは、敵に己の姿を見せること。敵に足跡を気づかれることだからだ。

p22より
 ラオール・ウォルシュの『攻撃目標ビルマ』に見られる、汗くさい男たちの息を殺したようなジャングルの中の歩みが脳裏をよぎらずにいられないのだが、みずからに課した危機的状況をかいくぐりながら徐々に目ざす地点へと近づいてゆくこの人目をさけた行程にあっては、足跡を残すことが最大の破局を招くことになるのだ。
 われわれの視線を否認する「闇」の存在をその成立条件する映画。視線そのものを無効にする映画と戦争のアナロジーは、映画の基本概念を極めて正確に捉えている。だが、戦場での行進はおよその場合、明確な到達目標が設定されているのに対して、見ることでしか成立しない「批評体験」とは、明確な目標を持っていないだろう。なぜなら、それは「不在なるものの輝き」に突き動かされているからだ("不在なるもの"を"目標"にすることなどできない)。

p24より
 では、映画のイメージのより総体的な把握を可能にするものとして、いったい何が残されているのかという問いかけが唇にのぼるとき、われわれの前には、あらゆる任務の概念を滅却した自由な世界が、ということは当然いささかも自由ではない世界が、拒絶しあう視線のドラマとして、また現在が沈黙の谺として響きわたる時間として拡がってくるのだが、それはほかでもないアメリカ合衆国の西部といったらいいのか、いやむしろ、トマス・H・インスからサム・ペキンパーにいたるおびただしい量の異質な作品群が、たがいに排斥し補いあって示す多様な反映ぶりを遠望することしかできないどこにも存在していない空間であり、誰ひとり経験したことのない時間のことなのだ。
 われわれは、これまで何度か繰り返して稠密な闇としての映画と、それを凝視する存在を捉える崩壊意識について触れてきたが、いまここでやや唐突に西部劇について言及することになるのは、いまさらこれをきわめつきの映画と呼んでアンドレ・バザンに遥かな賛同の意を表するためでは勿論なく、一貫して見えないもののあまりの現存を前にしたときの眩暈という観点からなのだが、その眩暈は(中略)アメリカはいうに及ばずヨーロッパのシネアストまでが、そそりたつ岩山と、動かない雲と風の音と大地の香りとのただ中に用意してきた物語を、そっくりはめこんでしまっても、なお同じ表情を保ち続けている西部の信じがたい可塑性に由来するものなのであり、これはちょうど、どこまで行っても言葉にしかめぐりあえない小説家の息ぐるしさに似て、遂にはわれわれを失神状態へと導く虚無への失墜なのだ。

 周囲を巡る岩山から注がれる敵意ある視線(多くはインディアン)が遥か遠くにあり、自己の存在を危険にさらさずには通過できない砂漠が拡がっている、という西部劇の典型的な構図を思い出そう。



 ここでは僅かに、その遠くの岩山なり砂漠に偶然ある岩塊なり近くの窪地が、唯一、敵の視線を回避する場である。だから、この物陰の徹底した不在が、馬に疾走を強いるのだ。「見るものと見られるものの相互侵略の闘い(ref.19)」が咄嗟の飛躍運動=ダイナミズムを生みだす、という一貫性は作品の枠を越えて見られる。リニアな単一の物語の一要素ではなく、多くの作品が互いに共鳴しあい「透明な一つのフォルム築きあげて」いるのだ。ここで5人の作家の一貫性を挙げる。

.献腑鵝Ε侫ード:直線、平行、直交といった単純な図形の運動
▲薀ール・ウォルシュ:1点を中心としていくつもの点が旋回していく円環運動
ハワード・ホークス:自らの過去の作品を反復しながら消してゆく創作
ぅ▲鵐愁法次Ε泪鵝Ы特討鮃發ぐ銘屬ら低い位置に撃ち落とす基本構造
ゥ丱奪鼻Ε戰謄カー:岩山に挟まれた窪地で2人の男が争う

p37より
 こうした作家たちにみられる作品の風土を越えて共鳴しあう秘かな細部の相互牽引作用、ある種の意義深い輪郭の共有関係、それらが自律的にかたちづくる強い磁力の場、あるいは遠目には排斥しあうとしか見えない諸要素がその差異を差異として保ちながら一点へと収斂してゆくかたちが示す共犯者的な目くばせ、それをわれわれはフォルムと呼ぶのであって、よく撮ること、つまりはしかるべき技法の持ち主が巧みに按配された物語を西部劇の背景と調和のある一致として据えつけることでは築かれることのないこの構築物は、小説家にとっての言葉の遍在性が、実は可能性の場というより存在を崩壊の危険にさらす息苦しい空間であったように、無限のイメージの氾濫へと視線を注ぐシネアストが、キャメラを向ければ映ってしまう対象の不遜な表情にいらだちながら、これを抹殺しようとする勝ち目のない不断の闘いのはてに、徐々に内面に堆積してゆく打ち勝ちがたい疲労感を切りぬけ、はてしない事物の海へとおし流されて実感する溺死の危険を拒絶する無意識の身振りがえぐりとる世界の空洞なのであって、まさしくこの空洞を現出させみる瞬時の姿勢こそが、「批評体験」の最も狂暴な力の炸裂と一致する・・・
映画・この不在なるものの輝き(1.批評と崩壊意識)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

 映画に未来はない。これは気のきいた比喩表現ではなく、単なる事実である。というのは、何よりもまず人は見えてはいないものしか創造/イメージしたりはしない、という事実があるからだ。言い換えると、イメージに視覚は必要ないのである。

p14より
 われわれの周囲の空間にはたえず映画が充満しきっており、おびただしい数の作品群がたがいにせめぎあっているはずでありながら、いざ瞳をこらしてみると、いまみたように厚い暗闇が地平の尽きる地点にまでたれこめていて、映画の姿などどこにも見あたりはしない。というよりもむしろ、われわれがふつう映画だと信じこんでいるものは、実は遥かに捉えられるその朧げなうしろ姿でしかなく、いままさに地平線のかなたに没しようとするその瞬間に、われわれの視線が達することのない地点に氾濫している光をうけて闇の中にはなつ束の間の輝きでしかないのだから、この一瞬の残像とわれわれとの間に口を拡げている深淵は、文学作品の読者と活字のつらなりとをひきさいている距離がそうであるように、ひたすら無限大であることをやめようとはしない。

 一瞬ごとに変貌する映像で人を惹きつけておきながら、まさに視線が触れようとする瞬間にたくみに身をかわす映画。「1秒間に24回の死」(ゴダール)こそが映画の生命である。ジャン・コクトーに倣えば「映画は、現在進行形で死を捉える芸術だ」。視線がその映像に触れようとする瞬間には、すべてが生から死への変貌に還元されている。これは音楽(時間芸術一般)についても言えるだろう。耳が旋律に触れた瞬間、その音は死んでおり、生きた音が間断なく訪れる。

p15より
 われわれが映画館の闇の中で目にするものは、世界が、そして人間の想像力までが時間とともに解体されてゆく純粋な無への運動、つまり死をめざして滑り落ちてゆく生の歩みの断片的な連続にほかならぬことになるのではないか。

p17より
 われわれが映画を語ろうとするとき、映画はどこにも存在しておらず、そのうしろ姿ばかりがときおり闇の中に不気味な反映をちらつかせているにすぎないのだから、映画を語ることは、とりもなおさず、作品の痕跡すらとどめていないこの闇の厚さを、身をもって実感することにほかならない。

 一般的な批評とは、作品がどこかに必ず存在し、その意味を思いのままに解読(解釈)し、あるいは細部をまとめ上げて、作品に遅れて進むものの優位を確保したい、という欲望からなる。だが、いかに綿密に張りめぐらした意味解読の網であろうと巧みにかいくぐり、見るものを置き去りにするのが映画である。

p18より
 重要なのは、まさに姿を消そうとする瞬間に、瞳という瞳から視力を奪う危険な閃光を発することで、その不在すらを人に感知させない秘密を心得ていることだ。執拗な視線がまさに触れようとするとき、閃光はおびただしい数の冷たい火の粉となってわれわれの内部に侵入し、一篇の映画を観たと信じこんでいる人間の最も奥深い部分にまでたどりついて、目に見えない病原菌が虚弱な肉体を徐々にむしばんでゆくように、ひそかにその精神の中枢部分を犯し、遂には瞳孔をはじめとして存在のあらゆる部分に麻痺状態を招致するにいたる・・・

 難解な表現だが、ここが蓮實重彦の映画批評の真髄ではないだろうか。「この不在なるものの輝き」とは、「われわれの内部に侵入し」た「火の粉」であり、それを通してはじまる「崩壊感覚」とは、「自分でありながら自分とは無縁の生命体へと変貌しつくした自分自身」を発見すること。つまり、見る行為には常に「存在の瓦解」が伴うのだ。

p19より
 存在の瓦解を伴わない見る行為が成立しえないとするなら、シネマテーク・フランセーズの暗闇でのゴダールの体験も、いわば映画のたぐいまれな氾濫の中に身を置きながら深めていった自己の崩壊意識の徹底化にほかならず、ジャン=リュックが世界のすべての記憶で飽和状態に達し、いま一歩でジャン=リュックとは無縁の何ものかに変貌しようとする瞬間に、はじめて撮るという行為によって、自己の内面に巣食っている映画を厳しくせめたてながら、彼はかろうじて窒息の危険からまぬがれたにすぎないのだが、見るものと見られるものとの間に展開されるこの絶えることのない相互侵略の闘いを、自分から自分を引き離しながら刻々かちとってゆく苦しげな存在確立の歩みを、われわれはとりあえず「批評体験」と呼んでおく・・・
映画と落ちること(5.落ちずにいること)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p264より
 ヒッチコックにあって真に問題なのは、落下の主題ではなく宙吊りの主題にほかならず、しかも宙吊りの主題は、落下のそれに従属するものではなく、むしろ落下の主題を拒絶する肯定的な身振りの実現なのである。宙吊り、つまりサスペンスとは、危険の増大にみあったかたちで主題化される相対的な劇的状況ではなく、危険を徹底的に拒否することで実現される積極的な身振りなのだ。

 墜落する直前に救出される、元刑事が屋根から落ちずに何の説明もないまま次の画面では地上に無傷で立っている、墜落寸前の者たちが嘘のように救われる。この荒唐無稽な楽天性がヒッチコック的世界である。極言すれば、ヒッチコック的作品では、人は落ちないのだ。落ちそうで落ちないからサスペンスが醸成されるのではなく、絶対に落ちないことが徹底して貫かれているがゆえに緊張を孕んだ光景を形づくるのである。



p266より
 宙吊りの姿勢を耐える者たちは、かろうじて指さきで大地にしがみついているのではなく、逆に指さき一つで大地を支えている永遠の軽業師なのである。ヒッチコック的な宙吊りの主題は、少なくともわれわれにそう信じこませる楽天性の&#39002;倒現象を映画に導入したということができるだろう。(中略)ヒッチコック的作品が顕在化せしめるこうした逆説は、おそらく、映画を、人間の想像力の祖型的な配置への従属から解放する一つの契機ともなるだろう。(中略)映画のみに有能なる想像力というか、むしろ映画を不断に遭遇しつづけることで形成される想像力というものが存在するのだ。(中略)しかし、失墜だの転落だのをめぐる神話はあらゆる地域の物語として語りつがれ幾重にも変奏されていながら、そこに落ちずにいることの積極的な意味を語る挿話などあっただろうか。サスペンスこそ、映画にふさわしい想像力の典型であり、映画によってはぐくまれ映画によって助長されもする神話的な主題なのである。それは現実にも存在する未決定状態のはりつめた持続を映画的に反映したものではなく、映画によって物理的にも心理的にも発見された想像力の典型なのだ。

 人間が空中に浮遊する、という映画は数多くある。だが、いきなり天井から逆さにつりさがってタップを踏んで踊りまわる、という荒唐無稽な振る舞いをしたのは、『恋愛準決勝戦』のフレッド・アステアだ。撮影のトリックはすぐに割れるが、重要なのは、この重力の方向転換という現象は、映画以外の領域において人間が出会ったためしがない、つまり映画によって可能になった想像力の表出だからである。この映画にのみ可能な夢は、ワンシーン=ワンショットで撮影されており、「編集」が入るこむ余地はない。このことの意義は大きい。なぜなら、編集が介在した途端、この画面がたちどころに夢であることをやめ、映画の退屈さが露呈するからだ。



p273より
 落下の主題は、編集、移動、スローモーション、クレーンといった自覚されざる映画的シニシズムが総動員されることで虚構の徹底化をはばみ、映画を制度化された想像力に従属させるものであり、落ちずにいること、つまり宙吊りの主題の過激なる実現としての落ちざることの主題は、長まわしによるワンシーン=ワンショットというもっとも素朴な、つまりは映画的特性の思考の身振りによって、虚構の徹底化をおし進めるという事実を明らかにするからである。
 縦の世界を垂直に貫く運動にさからってそれを超えること。つまり落ちずにいること。映画以外に起源を持たないこの不実にして過激なる欲望は、まさしく映画の限界そのものを映画自身につげる起源なき映画的想像力の反復を実践する。そしてその荒唐無稽なる反復と向かいあうとき、ほとんど倫理的とさえいってよかろう映画の透明な輝きがあたりの視線という視線を無効にするのだ。映画は落ちるものを見たりする瞳をそなえてはいない。それを目にしたかに錯覚する映画は、自覚されざるシニシズムを楽天的に蔓延させるばかりだ。人が映画として見たと信じこむのはこの蔓延する楽天性にほかならない。シニシズムに自覚的なる映画は落ちるものを見ようとしたりはしない。そして、落ちるものを目にはしまいとする映画に注がれようとする視線は、あらかじめ無効にされているのだ。だからこそ映画を見ることはあらかじめ禁じられたいとなみというべきなのだ。たかだか見えている映画を見ることほど楽天的な試みもまたあるまい。だが、その楽天的な試みすらが容易でないところに、映画の真の悲劇性があるといえるだろう。
映画と落ちること(4.ヒッチコック的世界)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

 「落ちること」にもっとも執着した作家・ヒッチコック。ほとんどの作品で「落ちる」という主題が反復されている。では、ヒッチコックにおける「落ちること」は、いったいどのような世界だろうか。

p255より
 ヒッチコックにあっての垂直の世界は、落下の主題であるよりも消滅の主題と深い関係を取り結ぶ舞台装置だというべきだろう。
 (中略)真にヒッチコック的な空間とは、その舞台装置のみせかけの垂直性にもかかわらず、縦の世界というよりは横の世界なのだ。横といっても、もちろん水平の地面の拡がりではない。あと一歩踏みだせば地面が地面でなくなるという、虚空と無媒介的に接しあった宙づりの一点ともいうべき世界なのである。

 宙づり。つまり、「サスペンス」である。「落ちること」ではなく、正確には「足場を失うこと」に重きを置かれる。『めまい』でのキム・ノヴァクは、墜落して死んだというよりは、塔の上で消えてしまい、『サイコ』での探偵が階段の上からのけぞって宙に舞った。『裏窓』で重要なのは、マンションとマンションの間に広がった中庭(虚空)であり、窓とは、その虚空へと人を招く危険な装置なのだ。地面が消滅すること。それは、物理的な運動というよりは変容する世界の恐怖である。保たれていた均衡が消滅する変化の意識である。
 ヒッチコックは『海外特派員』のラストで、旅客機が海上に不時着するシーンに見られるように、カメラを常に室内(操縦席の窓越し)に固定し続け、落下の衝撃で誰ひとり死んではいない、という御都合主義に徹してさえいる。

p259より
 問題は、技術への楽天的な信仰にあるのではなく、虚構化の身振りの徹底性なのである。そしてこの虚構的徹底性はこの上なくいい加減な説話的持続の展開ぶりによって、縦の世界を垂直に貫く運動に映画がどこまでも無力であるという現実を映画自身に向かってつぶやくことになるだろう。それはたとえば、『北北西に進路を取れ』の最後における断崖の追跡劇から無媒介的に夜行列車の寝台席へと移行する画面の連鎖が示す人を喰った御都合主義を思い起こせば容易に理解されることだと思う。

 ヒッチコック的肩すかし。このシニカルな選択は、映画において何が可能か、をではなく映画に何が不可能か、つまり映画的限界を見極める徹底した戦略なのである。ヒッチコックにおける落下の主題は、落下そのものにあるのではなく、むしろ落下の主題を骨抜きにしながら達成される「足場の崩壊」なのだ。

(参考作品)
『断崖』、『双頭の鷲』、『ポセイドン・アドベンチャー』、『エアポート'77』、『トリュフォーの思春期』
映画と落ちること(3.縦の誘惑)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p240より
 落ちること。精神分析的な主題としての失墜でも事故の転落でも、故意の投身でも、かまわないが、これを何とか垂直の運動として画面に定着させること。こうした映画の夢は、物語の上で何人かの落下者を生みだしてさえいるのだが、それにふさわしいカメラの下降運動はこれまたきわめて貧しいものだ。理由は、いうまでもなく、落下という運動が持つ過激性にある。つまり落下の速度にカメラが追いつかないということ、それに、落下する存在が地面に倒れる瞬間の衝撃は、とても生命を保証しうるものでないということが、貧しさの直接の原因なのである。

 つまり、重要なのは倫理の問題なのだ。倫理ということは、とりもなおさず広義の制度である。映画の制度性について考えると、たとえば殺人のシーンでは実際に人を殺すわけにはいかない、という身も蓋もない現実がある。それをクリアするのが「編集」だ。

p241より
 編集という技術は、画面が何ものかの表象としてある限りにおいて、不可避的に何らかの比喩形象の授けをかりねば作品たりえないという現実によって映画が導き入れた、この上なくシニカルな方法というべきものなのだ。

 ここでブニュエルを思い出す。『糧なき土地』で、ブニュエルは一匹のカモシカを崖から突き落とした。このシーンのはじめは敏捷なカモシカが足をすべらせる、次にほとんど直角に近い俯瞰で、岩肌にそって落ちてゆくカモシカを間近にとらえ、最後に地面に叩きつけられて動きを止めるカモシカが示される。この律儀な3つのショットでは「隠喩の修辞学」すら見当たらない。

p243より
 ところがここで注目すべきは、この三つのショットにおける不運な動物が同じ一匹のカモシカである保証はどこにもないという理由で、ドキュメンタリーを装った映画がいかにも堂々とその制度性を誇示しているという点であろう。
 虚構の構築にあたって一匹の動物が殺されてしまうというブニュエル的パラドックス。この逆説は、落下の主題をめぐる映画の脆弱さをきわめてシニカルに証拠だたているという意味できわめて教訓的であろう。ブニュエルは、この虚構、つまり真っ赤な嘘をいかにも本当らしく撮るために本当の死を画面外で演じさせ、しかもその不可視の死を視覚化すべく映画のこの上なく制度的な側面に忠実に編集をやってのけているからだ。だから『糧なき土地』という映画は、その外貌の生真面目さにもかかわらずきわめていい加減な作品なのであり、しかもブニュエルはそのいい加減さに徹することで映画の限界をきわだたせているのだ。

 繰り返すが、「映画の限界」とは、カメラが落下する物体に対して徹底して無力であることを指す。著者は、ここで『キング・コング』を落下の主題の起源として召喚し、垂直の世界と親和性の深い作家としてアンソニー・マンとフェデリコ・フェリーニを取り上げている。

p247より
 キング・コングがエンパイアステート・ビルなり貿易センター・ビルなりの屋上から転落してしまった以上、もはや映画に語るべきものは残されていないのだ。だから、ここではとりあえずの結論として、映画に縦の世界を貫く垂直の運動が導入される瞬間は、しばしばその説話的持続が断ち切られている傾向があるとのみ記しておこう。

 落下する物体、それが男性的な主題である、という共通点がある。つまり、落下するのはほとんどが男なのだ。それと対照的に華麗なる落下神話、つまり例外的な女性の落下としてハワード・ホークスの『港々に女あり』がある。高跳び込みの曲芸を演じながら町から町へと巡業するルイーズ・ブルックスに、悲劇的な要素は微塵もなく、かえって性的魅力にあふれ、「落ちること」に新たな価値を導入している。



p249より
 落下の主題は、映画にとって不吉なる映像ではなく、その説話的持続を断ち切りもせず、むしろ反復されつつ引き伸ばす活性化作用を帯びえてさえいることを明らかにしたという意味で、『港々に女あり』は神話的な作品として『キング・コング』とともに記憶されねばならない。
 とはいえ、ホークスといえど映画における「落下」に対して劇的な変化を加えることはなかった。あくまで、俯瞰と仰角による画面を編集し、換喩的/隠喩的な比喩形象を強調しながら、落下する運動そのものに間近に捉えることはできないのである。それどころか、その後、この限界を超えようとする楽天的な技術信仰が「方法としてのシニシズム」を蔓延させてさえいる。スローモーションである。

p253より
 スローモーション撮影は落下の主題をめぐる映画的限界をひたすら助長するばかりである。

 高速度撮影によって引き伸ばされた時間でさえ、単なる隠喩的な比喩形象のヴァリエーションでしかない。『私生活』のブリジッド・バルドーは現実に宙を舞っているわけではなく、スタジオに設置した装置の上で、一瞬たりとも落下することはなかったのだ。
(参考作品)
『明日に向かって撃て!』、『博士の異常な愛情』、『8 1/2』、『偽れる装い』、『ドイツ零年』、『さすらい』、『西部の人』、『アンディー・ウォーホールのBAD』、『裸の拍車』、『ウィンチェスター銃'73』、『崖』、『カビリアの夜』、『甘い生活』、『フェリーニのアマルコンド』、『魂のジュリエッタ』、『水着の女王』、『日本侠客伝』、『沓掛時次郎・遊侠一匹』、『超高層ホテル殺人事件』、『ワイルドバンチ』、『キャリー』、『家』
映画と落ちること(2.映画的装置のシニシズム)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p231より
 1950年代から60年代にかけて起こったクレーンの権威喪失は一つの映画史的なできごとである。(中略)わが生涯の最大の恥辱と告白されるあの『クレオパトラ』を三年がかりでともかくも撮りあげたマンキーウィッツは、クレーンの上の監督の権威を決定的に崩壊させたことで記憶さるべきシネアストであろう。

 シネマスコープ・サイズが日常化し、70ミリとしてスクリーンが拡大されたとき、多くの作家たちが「構図=逆構図」ではなく、同じ一つの画面に対象をおさめようとする傾向を顕著にした。画面の大型化とともに、ハリウッド的なメロドラマや活劇に不可欠だった「構図=逆構図」およびクローズ・アップが極端に減少したのは、つまりこうした「制度的な」理由からである。
 たとえば、ヌーヴェル・ヴァーグ。彼らがクレーン撮影をしなかった最大の理由は、単に金がなかっただけである。シャブロルの伯母の遺産を唯一の財源としていたらしいこの貧しい映画青年たち(ゴダール、トリュフォーを含む)にとって、クレーンを常備することなど夢にも思わなかった。ただ、トリュフォーとシャブロルは後年、クレーン撮影を試みている。唯一、クレーン撮影を禁じてきたのはゴダールだけだった。

p234より
 ゴダールにおいては、クレーン撮影はアメリカ映画のイデオロギー的象徴そのものとさえなっている。彼は、遂に自分からは使用することのなかったクレーンを一台借りうけたとき、そこに自分のカメラを据えるのではなく、かえってカメラが映しだすべき被写体に仕立てあげてしまった。

 ローリング・ストーンズが出演した『ワン・プラス・ワン』。そこでクレーンは、「アメリカ映画のイデオロギーの象徴」としてよりも、縦の世界を垂直に貫く運動に無力な粗大ごみとして自らを晒している。
 では、クレーン以降の撮影=ヘリコプター撮影はどうだろうか。『戦場にかける橋』のラストシーン以降、60年代前半から映画はヘリコプター全盛の時代を迎える。だが、こうした一連の空中からの俯瞰が、映画の構造に少しの変化も与えていない。

p237より
 つまりヘリコプターは、縦の世界を垂直に貫く運動への映画の徹底した無力を、一瞬、記憶から奪ってみただけでの映画的幻想にすぎないのだ。空中からの大俯瞰が捉えうる唯一のものは、なおも距離の意識でしかなく、上下に位置を移動する被写体の過激な運動性を表象しうる資質はあくまで欠落したままなのだ。

 ヘリコプター撮影の唯一の例外として、著者は『ダーティ・ハリー』の夜のサッカー場のシーンを挙げている。映画の導入でも結末でもなく、単なる1シーンの中断として挿入されるこのヘリコプター撮影は、ライトに照らされたサッカー場よりも、その周囲に広がるどんよりとした夜の黒さを強調させながら、疲れきった2人の男の虚しさと同じ虚しさを漂わせていくのだ。
(参考作品)
『007・ロシアより愛をこめて』、『カプリコン・1』、『ガントレット』、『脱獄』、『カサンドラ・クロス』、『イージー・ライダー』、『恐怖のメロディ』、『サウンド・オブ・ミュージック』、『テキサスの4人』、『ハッスル』、『激走!5000キロ』
映画と落ちること(1.縦の世界=垂直の運動)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p222より
 映画は、縦の世界を垂直に貫く運動に徹底して無力である。上昇とか落下とか、とにかく上下に位置を移動する対象をその垂直なる運動として表彰しえたイメージと音の蓄積というものは驚くほど貧しい。その貧しさは、いうまでもなく映画の物質的=技術的な条件に左右されている。

 人間の視覚機能に相応しくスクリーンは横長の長方形である。自由奔放なカメラワーク、と言いながらそのほとんどが横移動かそのヴァリエーションに過ぎない。要するに、映画が捉える対象はそう簡単には上下に動いてはくれないのだ。逆に言うと、縦の運動を捉えようとするとき、映画自らの限界を露呈せざるを得ない。
 上下のパン(パノラミック撮影)を思いだそう。ロケットの発射シーンなどで用いられるが、それは上昇運動を表現するというよりも、あくまで画面の奥へと遠ざかっていくという「深さ」や「遠さ」(被写体がしだいに小さくなっていく)の意識を強調することになり、それを補うべく、その被写体を見上げる地上の人間を「俯瞰撮影」で挿入していく。つまり、地上の人間の視線の方向によって、被写体の上昇を表現するわけだ。30年代ハリウッド映画が制度化した「構図=逆構図」の1つのヴァリエーションとして、この俯瞰=仰角がある。

p225より
 論理的には俯瞰と対をなすかにみえる仰角は、したがって俯瞰と対等な関係にあるのではなく、ほとんどの場合、カメラ自身が前者を統禦するという優位と劣勢の関係にあるといえるだろう。

 ここで著者は「制度たる映画の限界へと挑戦」する作家として、ラオール・ウォルシュを挙げる。ここでの「映画の限界」とは、縦の世界を垂直に貫く運動に対してカメラが徹底して無力でしかない、という事実である。ウォルシュは、仰角に対する俯瞰の優位を意識的に制度化する。ウォルシュ的犯罪活劇の俯瞰シーンは、「それが効果的であればあるほどシニックなかたちで、垂直の運動に対する映画の敗北を肯定していることになる。見おろすこと。それが見上げることに較べてはるかに自然ないとなみだと思われるのは、まさにその一点に映画の限界が露呈している」のだ。あらゆる俯瞰には映画のシニシズムが付いてまわる。
(参考作品)『イカロスの失墜』、『チェルシー・ガールズ』、『偉大なるアンバースン』、『ウィークエンド』、『ラヴェンダー・ヒル・モッブ』、『つばさ』、『ハイ・シェラ』、『死の谷』、『大雷雨』、『白熱』、『駅馬車』