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映画と落ちること(3.縦の誘惑)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p240より
 落ちること。精神分析的な主題としての失墜でも事故の転落でも、故意の投身でも、かまわないが、これを何とか垂直の運動として画面に定着させること。こうした映画の夢は、物語の上で何人かの落下者を生みだしてさえいるのだが、それにふさわしいカメラの下降運動はこれまたきわめて貧しいものだ。理由は、いうまでもなく、落下という運動が持つ過激性にある。つまり落下の速度にカメラが追いつかないということ、それに、落下する存在が地面に倒れる瞬間の衝撃は、とても生命を保証しうるものでないということが、貧しさの直接の原因なのである。

 つまり、重要なのは倫理の問題なのだ。倫理ということは、とりもなおさず広義の制度である。映画の制度性について考えると、たとえば殺人のシーンでは実際に人を殺すわけにはいかない、という身も蓋もない現実がある。それをクリアするのが「編集」だ。

p241より
 編集という技術は、画面が何ものかの表象としてある限りにおいて、不可避的に何らかの比喩形象の授けをかりねば作品たりえないという現実によって映画が導き入れた、この上なくシニカルな方法というべきものなのだ。

 ここでブニュエルを思い出す。『糧なき土地』で、ブニュエルは一匹のカモシカを崖から突き落とした。このシーンのはじめは敏捷なカモシカが足をすべらせる、次にほとんど直角に近い俯瞰で、岩肌にそって落ちてゆくカモシカを間近にとらえ、最後に地面に叩きつけられて動きを止めるカモシカが示される。この律儀な3つのショットでは「隠喩の修辞学」すら見当たらない。

p243より
 ところがここで注目すべきは、この三つのショットにおける不運な動物が同じ一匹のカモシカである保証はどこにもないという理由で、ドキュメンタリーを装った映画がいかにも堂々とその制度性を誇示しているという点であろう。
 虚構の構築にあたって一匹の動物が殺されてしまうというブニュエル的パラドックス。この逆説は、落下の主題をめぐる映画の脆弱さをきわめてシニカルに証拠だたているという意味できわめて教訓的であろう。ブニュエルは、この虚構、つまり真っ赤な嘘をいかにも本当らしく撮るために本当の死を画面外で演じさせ、しかもその不可視の死を視覚化すべく映画のこの上なく制度的な側面に忠実に編集をやってのけているからだ。だから『糧なき土地』という映画は、その外貌の生真面目さにもかかわらずきわめていい加減な作品なのであり、しかもブニュエルはそのいい加減さに徹することで映画の限界をきわだたせているのだ。

 繰り返すが、「映画の限界」とは、カメラが落下する物体に対して徹底して無力であることを指す。著者は、ここで『キング・コング』を落下の主題の起源として召喚し、垂直の世界と親和性の深い作家としてアンソニー・マンとフェデリコ・フェリーニを取り上げている。

p247より
 キング・コングがエンパイアステート・ビルなり貿易センター・ビルなりの屋上から転落してしまった以上、もはや映画に語るべきものは残されていないのだ。だから、ここではとりあえずの結論として、映画に縦の世界を貫く垂直の運動が導入される瞬間は、しばしばその説話的持続が断ち切られている傾向があるとのみ記しておこう。

 落下する物体、それが男性的な主題である、という共通点がある。つまり、落下するのはほとんどが男なのだ。それと対照的に華麗なる落下神話、つまり例外的な女性の落下としてハワード・ホークスの『港々に女あり』がある。高跳び込みの曲芸を演じながら町から町へと巡業するルイーズ・ブルックスに、悲劇的な要素は微塵もなく、かえって性的魅力にあふれ、「落ちること」に新たな価値を導入している。



p249より
 落下の主題は、映画にとって不吉なる映像ではなく、その説話的持続を断ち切りもせず、むしろ反復されつつ引き伸ばす活性化作用を帯びえてさえいることを明らかにしたという意味で、『港々に女あり』は神話的な作品として『キング・コング』とともに記憶されねばならない。
 とはいえ、ホークスといえど映画における「落下」に対して劇的な変化を加えることはなかった。あくまで、俯瞰と仰角による画面を編集し、換喩的/隠喩的な比喩形象を強調しながら、落下する運動そのものに間近に捉えることはできないのである。それどころか、その後、この限界を超えようとする楽天的な技術信仰が「方法としてのシニシズム」を蔓延させてさえいる。スローモーションである。

p253より
 スローモーション撮影は落下の主題をめぐる映画的限界をひたすら助長するばかりである。

 高速度撮影によって引き伸ばされた時間でさえ、単なる隠喩的な比喩形象のヴァリエーションでしかない。『私生活』のブリジッド・バルドーは現実に宙を舞っているわけではなく、スタジオに設置した装置の上で、一瞬たりとも落下することはなかったのだ。
(参考作品)
『明日に向かって撃て!』、『博士の異常な愛情』、『8 1/2』、『偽れる装い』、『ドイツ零年』、『さすらい』、『西部の人』、『アンディー・ウォーホールのBAD』、『裸の拍車』、『ウィンチェスター銃'73』、『崖』、『カビリアの夜』、『甘い生活』、『フェリーニのアマルコンド』、『魂のジュリエッタ』、『水着の女王』、『日本侠客伝』、『沓掛時次郎・遊侠一匹』、『超高層ホテル殺人事件』、『ワイルドバンチ』、『キャリー』、『家』
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