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映画と落ちること(4.ヒッチコック的世界)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

 「落ちること」にもっとも執着した作家・ヒッチコック。ほとんどの作品で「落ちる」という主題が反復されている。では、ヒッチコックにおける「落ちること」は、いったいどのような世界だろうか。

p255より
 ヒッチコックにあっての垂直の世界は、落下の主題であるよりも消滅の主題と深い関係を取り結ぶ舞台装置だというべきだろう。
 (中略)真にヒッチコック的な空間とは、その舞台装置のみせかけの垂直性にもかかわらず、縦の世界というよりは横の世界なのだ。横といっても、もちろん水平の地面の拡がりではない。あと一歩踏みだせば地面が地面でなくなるという、虚空と無媒介的に接しあった宙づりの一点ともいうべき世界なのである。

 宙づり。つまり、「サスペンス」である。「落ちること」ではなく、正確には「足場を失うこと」に重きを置かれる。『めまい』でのキム・ノヴァクは、墜落して死んだというよりは、塔の上で消えてしまい、『サイコ』での探偵が階段の上からのけぞって宙に舞った。『裏窓』で重要なのは、マンションとマンションの間に広がった中庭(虚空)であり、窓とは、その虚空へと人を招く危険な装置なのだ。地面が消滅すること。それは、物理的な運動というよりは変容する世界の恐怖である。保たれていた均衡が消滅する変化の意識である。
 ヒッチコックは『海外特派員』のラストで、旅客機が海上に不時着するシーンに見られるように、カメラを常に室内(操縦席の窓越し)に固定し続け、落下の衝撃で誰ひとり死んではいない、という御都合主義に徹してさえいる。

p259より
 問題は、技術への楽天的な信仰にあるのではなく、虚構化の身振りの徹底性なのである。そしてこの虚構的徹底性はこの上なくいい加減な説話的持続の展開ぶりによって、縦の世界を垂直に貫く運動に映画がどこまでも無力であるという現実を映画自身に向かってつぶやくことになるだろう。それはたとえば、『北北西に進路を取れ』の最後における断崖の追跡劇から無媒介的に夜行列車の寝台席へと移行する画面の連鎖が示す人を喰った御都合主義を思い起こせば容易に理解されることだと思う。

 ヒッチコック的肩すかし。このシニカルな選択は、映画において何が可能か、をではなく映画に何が不可能か、つまり映画的限界を見極める徹底した戦略なのである。ヒッチコックにおける落下の主題は、落下そのものにあるのではなく、むしろ落下の主題を骨抜きにしながら達成される「足場の崩壊」なのだ。

(参考作品)
『断崖』、『双頭の鷲』、『ポセイドン・アドベンチャー』、『エアポート'77』、『トリュフォーの思春期』
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