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映画・この不在なるものの輝き(1.批評と崩壊意識)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

 映画に未来はない。これは気のきいた比喩表現ではなく、単なる事実である。というのは、何よりもまず人は見えてはいないものしか創造/イメージしたりはしない、という事実があるからだ。言い換えると、イメージに視覚は必要ないのである。

p14より
 われわれの周囲の空間にはたえず映画が充満しきっており、おびただしい数の作品群がたがいにせめぎあっているはずでありながら、いざ瞳をこらしてみると、いまみたように厚い暗闇が地平の尽きる地点にまでたれこめていて、映画の姿などどこにも見あたりはしない。というよりもむしろ、われわれがふつう映画だと信じこんでいるものは、実は遥かに捉えられるその朧げなうしろ姿でしかなく、いままさに地平線のかなたに没しようとするその瞬間に、われわれの視線が達することのない地点に氾濫している光をうけて闇の中にはなつ束の間の輝きでしかないのだから、この一瞬の残像とわれわれとの間に口を拡げている深淵は、文学作品の読者と活字のつらなりとをひきさいている距離がそうであるように、ひたすら無限大であることをやめようとはしない。

 一瞬ごとに変貌する映像で人を惹きつけておきながら、まさに視線が触れようとする瞬間にたくみに身をかわす映画。「1秒間に24回の死」(ゴダール)こそが映画の生命である。ジャン・コクトーに倣えば「映画は、現在進行形で死を捉える芸術だ」。視線がその映像に触れようとする瞬間には、すべてが生から死への変貌に還元されている。これは音楽(時間芸術一般)についても言えるだろう。耳が旋律に触れた瞬間、その音は死んでおり、生きた音が間断なく訪れる。

p15より
 われわれが映画館の闇の中で目にするものは、世界が、そして人間の想像力までが時間とともに解体されてゆく純粋な無への運動、つまり死をめざして滑り落ちてゆく生の歩みの断片的な連続にほかならぬことになるのではないか。

p17より
 われわれが映画を語ろうとするとき、映画はどこにも存在しておらず、そのうしろ姿ばかりがときおり闇の中に不気味な反映をちらつかせているにすぎないのだから、映画を語ることは、とりもなおさず、作品の痕跡すらとどめていないこの闇の厚さを、身をもって実感することにほかならない。

 一般的な批評とは、作品がどこかに必ず存在し、その意味を思いのままに解読(解釈)し、あるいは細部をまとめ上げて、作品に遅れて進むものの優位を確保したい、という欲望からなる。だが、いかに綿密に張りめぐらした意味解読の網であろうと巧みにかいくぐり、見るものを置き去りにするのが映画である。

p18より
 重要なのは、まさに姿を消そうとする瞬間に、瞳という瞳から視力を奪う危険な閃光を発することで、その不在すらを人に感知させない秘密を心得ていることだ。執拗な視線がまさに触れようとするとき、閃光はおびただしい数の冷たい火の粉となってわれわれの内部に侵入し、一篇の映画を観たと信じこんでいる人間の最も奥深い部分にまでたどりついて、目に見えない病原菌が虚弱な肉体を徐々にむしばんでゆくように、ひそかにその精神の中枢部分を犯し、遂には瞳孔をはじめとして存在のあらゆる部分に麻痺状態を招致するにいたる・・・

 難解な表現だが、ここが蓮實重彦の映画批評の真髄ではないだろうか。「この不在なるものの輝き」とは、「われわれの内部に侵入し」た「火の粉」であり、それを通してはじまる「崩壊感覚」とは、「自分でありながら自分とは無縁の生命体へと変貌しつくした自分自身」を発見すること。つまり、見る行為には常に「存在の瓦解」が伴うのだ。

p19より
 存在の瓦解を伴わない見る行為が成立しえないとするなら、シネマテーク・フランセーズの暗闇でのゴダールの体験も、いわば映画のたぐいまれな氾濫の中に身を置きながら深めていった自己の崩壊意識の徹底化にほかならず、ジャン=リュックが世界のすべての記憶で飽和状態に達し、いま一歩でジャン=リュックとは無縁の何ものかに変貌しようとする瞬間に、はじめて撮るという行為によって、自己の内面に巣食っている映画を厳しくせめたてながら、彼はかろうじて窒息の危険からまぬがれたにすぎないのだが、見るものと見られるものとの間に展開されるこの絶えることのない相互侵略の闘いを、自分から自分を引き離しながら刻々かちとってゆく苦しげな存在確立の歩みを、われわれはとりあえず「批評体験」と呼んでおく・・・
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