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映画・この不在なるものの輝き(2.視線劇の基本構造)
映画の神話学
蓮實重彦
1979

p20より
 見えてはいないものへのいらだたしい渇望としてある「批評体験」の歩みは、ある特定の作品の残像とのほとんど偶発的といえる遭遇によって啓発されるものでありながら、その足跡は目ざす作品自体の表面に刻まれるのではなく、いわば流動する無名性に還元されたいわゆる作品一般の海、それも水面ばかりではなく海底すら持ちえない海のさなかなのであって、だから、航跡をみずから消し去ることによってしか前進はありえないこの歩みは、襲いかかる存在の崩壊感覚を生の有限性のまぎれもない証としてうけとめ、それを苦悩や快楽とすり替えたくなる誘惑を排しつつ、これまた見えてはいないみずからの終息の地へとひたすら滑り続ける運動にほかならなくなり、いわば沈黙による沈黙への拒絶ともいうべきこの試みは、人間のありとあらゆるいとなみのうちで最も血なまぐさく、また狂暴な色調でいろどられているはずのものなのだ。
 この一文は気軽に読み飛ばせない。「批評体験」とは、個々の作品のみならず「作品一般」の「表層」においてのみあり、それによって被る崩壊意識は、決して過去のものではなく現在でもうずき続けている生傷であり、不断に更新されていく(「航跡をみずから消し去る」)ものである。この歩みが、「人間のありとあらゆるいとなみのうちで最も血なまぐさく、また狂暴な色調でいろどられている」のは、もちろんレトリックであり、それは「戦争」である。かの名言を思い出す。
 「映画は戦場だ。そこには愛、憎しみ、アクション、暴力、死がある。ひと言で言い換えれば"エモーション"だ」(サミュエル・フラー)



 ゴダールが『気狂いピエロ』でサミュエル・フラーに語らせたこの台詞、つまり戦争と映画のアナロジーは、あらゆる視線から逃れ、しかも視線そのものを無効にすることで実現されてゆく一つの行程として捉えられるべきものだ。なぜなら、戦場でもっとも危険なのは、敵に己の姿を見せること。敵に足跡を気づかれることだからだ。

p22より
 ラオール・ウォルシュの『攻撃目標ビルマ』に見られる、汗くさい男たちの息を殺したようなジャングルの中の歩みが脳裏をよぎらずにいられないのだが、みずからに課した危機的状況をかいくぐりながら徐々に目ざす地点へと近づいてゆくこの人目をさけた行程にあっては、足跡を残すことが最大の破局を招くことになるのだ。
 われわれの視線を否認する「闇」の存在をその成立条件する映画。視線そのものを無効にする映画と戦争のアナロジーは、映画の基本概念を極めて正確に捉えている。だが、戦場での行進はおよその場合、明確な到達目標が設定されているのに対して、見ることでしか成立しない「批評体験」とは、明確な目標を持っていないだろう。なぜなら、それは「不在なるものの輝き」に突き動かされているからだ("不在なるもの"を"目標"にすることなどできない)。

p24より
 では、映画のイメージのより総体的な把握を可能にするものとして、いったい何が残されているのかという問いかけが唇にのぼるとき、われわれの前には、あらゆる任務の概念を滅却した自由な世界が、ということは当然いささかも自由ではない世界が、拒絶しあう視線のドラマとして、また現在が沈黙の谺として響きわたる時間として拡がってくるのだが、それはほかでもないアメリカ合衆国の西部といったらいいのか、いやむしろ、トマス・H・インスからサム・ペキンパーにいたるおびただしい量の異質な作品群が、たがいに排斥し補いあって示す多様な反映ぶりを遠望することしかできないどこにも存在していない空間であり、誰ひとり経験したことのない時間のことなのだ。
 われわれは、これまで何度か繰り返して稠密な闇としての映画と、それを凝視する存在を捉える崩壊意識について触れてきたが、いまここでやや唐突に西部劇について言及することになるのは、いまさらこれをきわめつきの映画と呼んでアンドレ・バザンに遥かな賛同の意を表するためでは勿論なく、一貫して見えないもののあまりの現存を前にしたときの眩暈という観点からなのだが、その眩暈は(中略)アメリカはいうに及ばずヨーロッパのシネアストまでが、そそりたつ岩山と、動かない雲と風の音と大地の香りとのただ中に用意してきた物語を、そっくりはめこんでしまっても、なお同じ表情を保ち続けている西部の信じがたい可塑性に由来するものなのであり、これはちょうど、どこまで行っても言葉にしかめぐりあえない小説家の息ぐるしさに似て、遂にはわれわれを失神状態へと導く虚無への失墜なのだ。

 周囲を巡る岩山から注がれる敵意ある視線(多くはインディアン)が遥か遠くにあり、自己の存在を危険にさらさずには通過できない砂漠が拡がっている、という西部劇の典型的な構図を思い出そう。



 ここでは僅かに、その遠くの岩山なり砂漠に偶然ある岩塊なり近くの窪地が、唯一、敵の視線を回避する場である。だから、この物陰の徹底した不在が、馬に疾走を強いるのだ。「見るものと見られるものの相互侵略の闘い(ref.19)」が咄嗟の飛躍運動=ダイナミズムを生みだす、という一貫性は作品の枠を越えて見られる。リニアな単一の物語の一要素ではなく、多くの作品が互いに共鳴しあい「透明な一つのフォルム築きあげて」いるのだ。ここで5人の作家の一貫性を挙げる。

.献腑鵝Ε侫ード:直線、平行、直交といった単純な図形の運動
▲薀ール・ウォルシュ:1点を中心としていくつもの点が旋回していく円環運動
ハワード・ホークス:自らの過去の作品を反復しながら消してゆく創作
ぅ▲鵐愁法次Ε泪鵝Ы特討鮃發ぐ銘屬ら低い位置に撃ち落とす基本構造
ゥ丱奪鼻Ε戰謄カー:岩山に挟まれた窪地で2人の男が争う

p37より
 こうした作家たちにみられる作品の風土を越えて共鳴しあう秘かな細部の相互牽引作用、ある種の意義深い輪郭の共有関係、それらが自律的にかたちづくる強い磁力の場、あるいは遠目には排斥しあうとしか見えない諸要素がその差異を差異として保ちながら一点へと収斂してゆくかたちが示す共犯者的な目くばせ、それをわれわれはフォルムと呼ぶのであって、よく撮ること、つまりはしかるべき技法の持ち主が巧みに按配された物語を西部劇の背景と調和のある一致として据えつけることでは築かれることのないこの構築物は、小説家にとっての言葉の遍在性が、実は可能性の場というより存在を崩壊の危険にさらす息苦しい空間であったように、無限のイメージの氾濫へと視線を注ぐシネアストが、キャメラを向ければ映ってしまう対象の不遜な表情にいらだちながら、これを抹殺しようとする勝ち目のない不断の闘いのはてに、徐々に内面に堆積してゆく打ち勝ちがたい疲労感を切りぬけ、はてしない事物の海へとおし流されて実感する溺死の危険を拒絶する無意識の身振りがえぐりとる世界の空洞なのであって、まさしくこの空洞を現出させみる瞬時の姿勢こそが、「批評体験」の最も狂暴な力の炸裂と一致する・・・
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