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高橋由一
日本近代美術史論
高階秀爾
1972



p13より
 重要なことは、「花魁」の画面の持つそのような平板さや、西欧的なヴァルールを無視したような色彩の並列が、決してただ油絵技法の習得の未熟さによるものではなく、逆に油絵本来の感受性とは異質の感受性によって強く支えられていることである。(中略)だが、西欧的な意味からすれば「破格な」その画面に、私は紛れもない自分自身の感受性に呼びかける何かを感じ取った。私が「花魁」の前で味わった新鮮な感動は、「迫真的な写実性」以上に、私の内部に眠っていた「歴史」に対するその呼びかけの強烈さに由来するものであった。明らかに私は、「花魁」のなかに自分の同胞を見出していた。いや自分自身のなかに「花魁」の世界の存在を感じ取っていたのである。
 もちろん、「花魁」の画面にそのような強い共感を覚えるということは、その画面の持つ「破格な」表現が解消されてしまったということにはならない。それどころか、「花魁」の持つ「破格な」特性は、そのま増幅されて私自身のなかに再生させられた。もはや明治初年のある絵画作品のなかにではなく、私自身の内部において、歴史が大きな裂け目を見せはじめていたのである。私が「花魁」の画面に感じた違和感の小隊は、おそらく自分の内部の歴史のその亀裂の深さであったに相違ない。
p26より
 「花魁」の平板で装飾的な色彩配合は、ルーベンスのものでもなければドラクロワのものでもなく、むしろ浮世絵の色ーあえて言えば、ほとんど国芳や国貞のそれに近いものーである。むろん、この連想は主題から来るものではない。「花魁」の鮮やかな色彩がそれぞれおたがいのヴァルールの関係によって支配されない色、つまり端的に言えば空気の存在を知らない色だからである。西欧の油絵が空気の発見とともに登場して来たことを思えば、「花魁」の表現が「破格」であるのも当然のことと言えよう。
 空気の存在を感じさせないが故にいっそう「迫真的」とは、逆説ではない。見るものは、自分と対象とあいだに本来あるべき空気の媒介なしに、否応なく対象と直面させられる。そこには、ある種の目眩にも似た距離感の喪失がある。正常なバランスが失われ、あらゆる細部が同じような力で見るものに迫ってくる。著者の言う「迫真的」とは、この距離感の喪失に起因するものと考える。同じことは「鮭」や「豆腐と油揚」その他の静物画についても指摘できるだろう。これらの作品は、日常的な題材を極めて写実的に描きながら、われわれが知っている「そのもの」らしさ、つまり、親しみ深さを失っている。端的に不気味なのだ。ここでも高橋由一は、リアリズムを目指しながらいつしかリアリズムを越えてしまっているのである。





p28より
 由一芸術の頂点が「花魁」から「鮭」図連作を経て「豆腐と油揚」図等の日常の事物の表現に至る静物画群にあると見ることは、おそらく誰しも異存のないところであろう。ということは、年代にすれば明治5年から明治10年頃、せいぜい下って明治12年頃までの6、7年間のことである。「生レテ二歳」から筆を把って生涯絵画に身を捧げた由一にしては、意外に短い期間と言わねばならない。特に、晩年10数年間は、作品が残っていないわけではないのに、「花魁」や「鮭」に匹敵するほどの厳しい緊張感に満ちた表現にまで達しているものはついに見あたらない。
 著者はこの謎を追及する。由一が最初に西洋画(石版画)に触れた時期は、文久年間(由一が30代前半のころ)と推定しており、それは「オランダ渡りとは言ってもレンブラントの版画のようなものではなく、いずれ通俗的な三流作品であったに違いない」としている。この事情は、ちょうど同時期に、日本の「通俗的」浮世絵版画がフランスの印象派に影響を与えたのと似ている。由一が安物の「洋製石版画」に驚喜したというエピソードは、ゴッホが安物の浮世絵版画に感激したというエピソードとパラレルである。ゴッホも由一と同じように、通俗的な浮世絵について熱狂的に語り、おそらくは「忽チ習学ノ念ヲ起シ」て実際に浮世絵の模写を試みている。だが、当然ながら、ゴッホの作品は浮世絵の世界ではなく、西洋絵画の歴史のなかにこそその場所を持つべきゴッホ自身の世界であった。同様に由一も西洋画の世界を追い求めながら、実は自分自身の世界を作り上げたのである。
 由一が画学局に入学後まもなく掲げた有名な「的言」を要約すると、ヽ┣茲箸老茲靴特韻覆詬靴咾任呂覆て「治術ノ一助」となる実用的なものであること、△修里燭瓩砲鰐整鼎箟鷆瓩鯏確に表現することのできる「洋画ノ奇巧」を学ぶこと、である。

p37より
 由一の歴史的意義は、冬崖においては「まだよくこなれあわぬ二すじ道の出来事であった」美術と技術とをひとつのものとして受けとめたところにあった。しかしその由一にしても、美術と技術とがひとつになっている西欧のオーソドックスな油彩画を正面から受けとめたわけではなく、通俗的な三流石版画やあるいは西欧の絵画入門書を通じて学んだ洋画の表現方法を、伝統的な感受性によって受けとめていたのである。その伝統的な感受性というのは、ひとつには狩野派に代表されるような綿密な現実観察であり、ひとつには浮世絵版画に見られるような「平坦な色面」であり、そしてさらに、平賀源内や司馬江漢から受け継いだ実証的精神、いわば実学の伝統であった。

p38より
 江戸時代以来受け継がれてきた実学の伝統の上に西洋画の技法にもとづく写実表現を打ち建てるということは、その技法がまさに純粋の技法としてーすなわち感受性の伝統から切り離されたものとしてー受け入れられた時にはじめて可能となる。とすれば、由一が文久年間に始めて接したという西洋画が、三流の通俗的石版画であってレンブラントではなかったということは、むしろ由一にとって幸運であったかもしれない。
 つまり、レンブラントのように西洋の感受性と技法が高度に濃縮された作品に「最初に」触れた場合、それを純粋に技法の世界だけのものとして受けとめることは困難であったに違いないし、また、黒田清輝のように西洋の感受性そのものを移植しようと試みたのではないか。あるいは、岸田劉生のように西洋の感受性と日本の感受性との相克で悩むか。その点、高橋由一が実際にヨーロッパに行ったことがなかった、ということはある意味では正解だった。
 その由一が明治11年頃から急速に変貌していく。フォンタネージと出会い、はじめて西欧の油絵らしい油絵と直接触れたためである。

p39より
 あれほどまで油絵の技法に執着し、油絵の表現を求めた由一が、ようやく正当な油絵表現に触れることができた時から、その緊密な表現力を失って行くということは、驚くべきことのように思われる。しかしそれも、考えてみれば当然の成行であったのかもしれない。西欧の感受性の伝統に触れた由一は、もはや「花魁」に見られるような「破格な」表現に身を任せることができなくなってしまったからである。
 (中略)事実、晩年の風景画における由一は、「花魁」や「鮭」の由一に比べると、恰も神通力を失った魔術師のように見える。「花魁」や「鮭」の奇蹟はもはや二度と繰り返されることはない。日本の近代絵画は、良くも悪くもこの神通力を失ったところからあらためて出発しなおさなければならなかったのである。







 晩年の風景画とは、「不忍池」や「浅草遠望」、「宮城県庁門前之図」である。ここには遠近法を習得した「凡庸さ」だけがあり、著者が「花魁」において抱いた「違和感」はない。たとえば、由一が「鮭」のように縦長の変形の画面を描いたのは、「油絵が横では、床の間に掛けるわけにも参りません、そこで柱に掛けるように、あの頃は、よく細長い板に描いたものです(「高橋由一の鮭図について」/佐々木静一)」という、紛れもない自由さがあった。高橋由一の作品には、才気溢れた日本人が西欧に浸食された苛酷な事実を物語っているように見える。
 ただ、著者は最後まで「花魁」の謎(つまり「鮭」や「豆腐と油揚」に比べてなぜ「花魁」に惹かれるか)については論じていない。この謎そのものが「花魁」の魅力とも言うべきか。最後に、由一が画学局在学中に残した言葉を引用したい。とても気持ちの良い言葉だ。
 絵事ハ精神ノ業ナリ理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除去シ始テ真正ノ画学ヲ勉ムヘシ

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