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黒田清輝
日本近代美術史論
高階秀爾
1972

 森鷗外の小説『妄想』に以下のような文がある。
 自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持つて帰るのではない。将来発展すべき萌芽をも持つてゐる積りである。併し帰つて行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分は fatalistischな、鈍い、陰気な感じに襲はれた。
 鷗外のこの述懐には、自分がドイツ留学において持ち帰った「萌芽(医学)」がついに育たなかったということに対する悔しさばかりでなく、かえってそのために他人の妬みを買って人生につまずかされたという苦々しさも感じられるが、しかしそのような個人的感情は別として、明治時代に洋行して、故国に帰るにあたってこのような不吉な予感を抱いたのは、ひとり鷗外だけではない。


 こないだからひらけてをるちいさなきようしんくわいに六まいほど絵をだしてをきましたらある三つ四つばかりのしんぶんににつぽんじんのくろだといふやつがせいよう絵をかくだのなんのかのとありましたよ もう四五ねんもこつちにをつたならすこしはせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです だがしかたはございません につぽんへかへつてからてがさがらなければよいがとおもつてをります せいようじんにまけんようにやろうといふのはむづかしいもんです せいようじんは一せうべんきようをしてをるのににつぽんじんはながくて十ねんばかりきり それからにつぽんへかへつてゆくとせけんのやつがなんにもできないもんですからすぐにひとりてんぐになつてしまいなんにもできないようになつてしまいます わたしもそういふようになつてしまうのかとおもふとみがずうつといたします・・・
 上は明治26年、9年間にわたるフランス留学生活から日本へ帰るとき、黒田清輝(当時28歳)が養母貞子に宛てた手紙である。留学中、有名な「読書」を描き上げた若き黒田は日本の帰るのが無念だったことだろう。この危機意識は&#40407;外のものと異なる。黒田が目指したのは、医学のように普遍性を追及する「科学」ではなく、およそその土地の風土から容易に切り離せない感受性に依存する「芸術」なのだから。「もう四五ねんもこつちにをつたならすこしはせけんにしられるようになるかもしれませんがざんねんです」と言う黒田は、フランスの生活の中に入り込んで、その雰囲気の中で小さいながらも自己の才能の萌芽を認識していたに違いない。

p84より

 もちろん、日本に帰るにあたって、彼は彼なりに抱負も自信もあったに違いない。そして、鷗外の場合と違って、帰国後の黒田清輝は、世間的には成功と栄誉の連続であった。
 (中略)しかし、世間的な栄光はともかく、芸術創造の面においては、黒田自身の成し遂げたことも、あるいは黒田に始まるいわゆる「新派」の勝利も、決して黒田の意図を実現したものではなかった。余人は知らず、少なくとも黒田自身は、その華やかな栄光の陰で、ある種の空しさを噛みしめていたはずである・・・
 私にそのように思わせるものは、後に見るように晩年の黒田がしばしば自分の仕事に対して苛立たしげな口調で語っていることばかりではない。晩年の黒田の作品に、時に不気味なほど暗い絶望の影が稲妻のように浮かぶことがあるからである。
 黒田は明治19年5月から、ラファエル・コランのもとに弟子入りをして絵画の修行に励むようになった。黒田がコランに学んでいた1880年代後半から90年代前半にかけての時期はちょうど印象主義が官学系のアカデミズムに取って代ろうという歴史の転換期だった。

p92より
 黒田とコランの出会いによって、コランの折衷的な外光派アカデミズムが日本にもたらされたという通説は、少なくともふたつの点で修正を必要とする。第一に、黒田がコランに学び、コランを通じて日本に移植しようと思ったものは、印象派の影響を受けた折衷的な外光描写などではなくてもっと基本的な西欧絵画の理念、もう少し具体的に言えば、はっきりした骨格と明確な思想に支えられたコンポジション(構想画)としての絵画という理念だったことであり、第二に、しかしその西欧絵画の理念は、日本にもたらされた時、その骨格と思想を失って断片的、感覚的なものに変貌して行ったということである。
 (中略)伝統的なアカデミズムの絵画理念が断片的、感覚的な外界描写に変貌して行くその過程は、近代的な小説理念が、日本において、いつしか身辺雑記風な私小説に変質して行くのにほぼ対応している。
 この絵画観については、明治29年に東京美術学校に西洋画科が設置されることになり、その主任教授に迎えられた黒田の抱負を読むとよくわかる。
 この洋画科は都合四年の学期で第一年は石膏物の写生第二年は人物即ち裸体等の写生此二年は木炭で第三年に至り油絵を習はせ第四年を以て卒業試験に充てる。
 絵画に於ける脳裏の教育即ち人物の置き方、光線の取方、色の配合など其想像力を養ひつつ絵を教へて往くには勢ひ課題が必要、殊に歴史画なる時は其想像力を及ぶ限り広げることに便利が多い。そこで三年生になれば毎週一回位宛歴史画の課題を与へて脳裏の教育をする積りです。
 歴史画を課題とすればとて、何も歴史画を重んじての訳ではない。仮令ば智識とか、愛とか云ふ様な無形的の課題を捉へて、充分の想像を筆端に走らする如きは無論高尚なことなれど、二三年やつた位の処では出来そうにもない。其れよりは先ず相当な歴史画を将つて、其課題とするのが至極稽古中に適すると思ひます。
p95より
 つまり、彼は、写生やデッサンは絵画表現のための必要な基礎であって、それに加えて「脳裏の教育」すなわち、構図、明暗、色彩配合等を含めて全体の構想をまとめるのに必要な「想像力」を養うのが肝要だというまっとう過ぎるくらいまっとうな意見を持っており、そのためのまず第一段階として写生を勉強させようと主張するのである。
 この黒田の抱負には、「仮令ば智識とか、愛とか云ふ様な無形的の課題を捉へて、充分の想像を筆端に走らす」ことこそが、絵画の最も高尚なるものだという思想がうかがわれる。レアリズムどころか、まったく正反対の絵画観である。「はっきりした骨格と明確な思想に支えられたコンポジション」を作り上げるという理念こそ、黒田が日本に移植しようと試みたものである。





p98より
 しかしこのようにして黒田が的確に捉えた西欧絵画の理念を日本に移植することは、決して容易なことではなかった。もともと西欧においては絵画の本道と見做されていた寓意画というジャンルが日本においては遂に発展しなかったことを思えば、「思想を持った絵画」を日本に根づかせることは、きわめて困難な事業であった。
 (中略)黒田にとっては、新派と言い旧派と言うも、所詮は技術上の問題であって、日本の洋画の根本理念にかかわるものではなかった。むしろ彼は、人びとがあまりにそのような技術的問題にかかずらわって、精神的骨格を無視しているかのように思われるのが何よりも不満であった。
 黒田のこの態度は明治36年の『美術新報』に掲載された「日本現今の油絵に就て」と題する彼の談話にはっきりと表れている。
 ・・・わが洋画家が近来の作品を実見しかつ其挙動を窺うのにイヤ紫色がどうだとか、或は黒っぽいの白っぽいのとわけも無く騒ぎ廻って、その色の如何によつては彼は新派なり、彼は旧派なりなどとの名称を下しているが、僕などはそんな解らない馬鹿げた話は無いと思つている、否な思つている所ではない、こう云ふ頭脳の連中が沢山なのだから、いくら日本に於ける洋画の進歩発展を図るの促すのと云つたって、却々大抵のことでは無い、余程しつかり遣ら無くっては駄目だ・・・外形を装飾せんが為めの色の遣ひ方のみに気を揉んで、其画の根底たる精神と云ふ事に就て余り深く顧る者の多からぬのは、僕等の大いに憂ひとする所である・・・
 黒田がここで「画の根底たる精神」と言っているものは、主題や構図や意味内容を含めた広い意味での「コンポジション」と呼ばれるもので、パリ滞在時代の「朝妝」をはじめ、帰国後制作された「昔語り」や「智感情」のような大構図の作品である。





p104より
 しかしながら、黒田のそのような努力にもかかわらず、彼の意図した西欧的構想画は、ついに日本には根づかなかった。それは、ひとつには黒田自身、人並み優れた理解力と描写力を持っていながら、構想力において欠けるところがあったという理由によるものであるが、しかしそれ以上に、日本の画壇にその種子を育てる精神的風土が、&#40407;外の言う「雰囲気」がなかったからである。黒田の試みの挫折と彼自身の作品の微妙な変質とは、この日本的風土がもたらしたものだったのである。


 黒田の転機はあの有名な「湖畔」だと理解する。モデルとなった照子夫人の回想によると、「下絵も何もなくぶっつけにカンバスに描きはじめました」とある。「湖畔」の2年後、1899年の「智感情」が1900年のパリ万国博覧会において銀メダルを獲得した。しかし、彼の努力がフランスにおいて認められたころには、次第に彼は「思想的骨格」を備えた構想画を捨てて、身辺雑記的(私小説的?)な自然描写に移っていく。いわゆる折衷的な外光的アカデミズムというものは、このようにして生まれて来たのである。つまり、近代日本の風土が黒田を「折衷的な外光的アカデミズム」の画家に仕立てあげたというのが、著者の認識である。

p113より
 黒田自身は思想的骨格を持ったものこそが本来の絵画だと考えていたに相違ない。それならばこそ、単に「色の調子や組立や画き方にアッサリ愉快を感ずる」だけの自分は、結局「画かきとして甚だ無能なもの」という自嘲的感想が出て来るのである。事実この感想は、単なる謙遜ではなく、ある程度まで正直であったろう。別のところでは彼は、自分の絵はすべて「一種のスケッチだと云へば云へないこともない」と言い切っている。西欧の近代小説の理念が、日本にもたらされた時いつしか変質して私小説を生みだし行ったように、西欧の伝統的絵画理念は、日本にもたらされた時、いつしか変質して作者の周囲を断片的に写し出しただけのスケッチを生み出すことになってのである。


 大正5年、『美術』創刊号に寄せた一文で、「私自身も、今迄殆どスケッチだけしか拵へて居ない。之から画を拵へたいと思ふ」と黒田は残している。この一節は、何とか西欧の伝統的芸術理念を日本に移植しようと努めながら、いつの間にか日本的風土にがんじがらめにされて挫折してしまったひとりの先駆者の自分自身に対する憤りを感じる。黒田は、その8年後に亡くなっている。絶筆となった「梅林」は、自己の運命に対するこの芸術家の最後の闘争であった。

p86より
 この作品は、決して功成り名遂げた芸術家の悠々自適の心境を反映しているものではない。激しく捩じれる梅の樹枝や、画面に絵筆を叩きつけたようなダイナミックな筆触、そして何よりも、印象派の感覚的表現とも、フォーヴの色彩礼賛とも違うその表情豊かな色彩表現は、この絵の作者の心の中で何ものかが激しく荒れ狂っていたことを雄弁に物語っている。それは、何らかの意味で外部の世界を写し出したものではなく、むしろ作者の内部の怨念のようなものを吐露した妖しい迫力を持つ名作である。
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