<< March 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

<< 黒田清輝 | main |   >>
青木繁
日本近代美術史論
高階秀爾
1972

 日本の美術界において、数少ない天才の1人に青木繁がいる。28歳で夭折したこの天才を、著者はこう評価する。

p127より
 普通、わが国の近代美術史の上では、青木繁は、明治の浪漫主義的傾向を代表する作家と言われている。たしかに、ある意味ではアカデミックと言ってよいような黒田清輝の洋画移入によってもたらされたいわゆる新派が、ようやく日本の洋画界の主流となろうとしていた時期に、青木繁は、天衣無縫な構想力を自在に発揮して、何人の追随も許さない詩情豊かな作品世界を生み出した。もし、何ら出来合いの規則にとらわれない自由な発想を浪漫主義と言うなら、たしかに青木の絵画世界は浪漫主義的と言ってよいだろう。しかし、歴史的に見るなら、青木のあのどこか幻想的な華やかさを秘めた画面の背後にあるものは、1830年代の西欧ロマン主義ではなくて、それから半世紀後の世紀末的雰囲気であったように思われる。事実、西欧の世紀末芸術の特色である華麗な幻想性と知的好奇心の共存、神秘主義、象徴主義への傾斜、異常なもの、グロテスクなものに対する興味、病的なまでに鋭敏な感受性、物語趣味と歴史趣味、装飾的なものへの憧れ等は、いずれも青木のそれほど多いとは言えない作品世界にはっきりと認められるものであり、さらには、あまりにも優れた才能を抱きながら、それ故に世に容れられず、放蕩の生活に溺れて不遇な短い生涯を送ったというその経歴まで、彼は、世紀末の多くのデカダンの芸術家を思わせるものを持っていたのである。
 その意味で、青木繁は、黒田清輝と対照的な気質の芸術家だったと言ってよい。黒田がきわめて堅実な優等生型の努力家であったとすれば、青木は奔放無頼の天才型の作家であり、黒田がフランス留学以来、着実にその社会的地位を固めて華々しく活動し、多くの栄誉にかこまれて天寿をまっとうしたのに対し、青木はまるでわざとのように放蕩の生活を続け、世間的には失敗の連続でついにまだ30歳にもならないうちに、九州の病院で淋しくその生涯を終えた。それだけに、青木の周囲には、虚実とりまぜてさまざまのエピソードや伝説の網の目がはりめぐらされ、彼の存在そのものまでがほとんど伝説的なものになっている。このことも、浮いた話ひとつない黒田の生涯と正反対である。
 青木は、ギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌのようなフランス象徴派の作家やバーン=ジョーンズのようなラファエロ前派、そしてラファエロ前派が好んだイタリア・プリミティフ画派に強く影響を受けている。当時日本に定着しはじめた印象派の画家については、もちろん存在を知らなかったわけではないが、ほとんど興味を示していないのだ。

p131より
 青木のように人並みはずれた、ほとんど異常なまでに鋭い感受性の持主にとっては、たとえ現物に接することがなくても、複製や画集によって自己の魂と共鳴する魂をこれら世紀末の画家たちに見出すことは、おそらく容易なことだったであろう。(中略)青木は西欧から遠く離れた日本にずっといたままであったからこそ、モローやシャヴァンヌのような古典派の作家たちのなかにさえ、世紀末のデカダンスの香りを感じ取ることができたのである。
 本書は、ここで青木繁が東京の友人に向けた書簡を紹介している。女の水死人の話から、終日降り続ける雨の描写に至る箇所である(長文のため引用せず)。ボルヘスのように現実と幻想が錯綜し、頭の中がぐちゃぐちゃになっているような文章で、思わず戦慄を覚える。ほとんど病的と言ってよいほどの幻視家だった青木は、黒田のように「何か拵へよう」と思って苦労することはなかった。むしろ彼の場合は、あまりにも生々しい幻影を、どのように追い払ったらよいかということに苦心したように思える。









 もちろん、青木繁の芸術の根底にあるのは、単にこの病的なまでに生々しい幻影世界だけではない。彼は明確に理論的なものを求めていたのだ。

p140より
 梅野満雄の思い出によると、青木は困窮の生活のなかでも勉強することを止めず、上野の図書館に通って日本の古典や仏典などを読んでいたという。その頃彼は、「僕が駒込を離れることが出来ないのは上野の図書館があるためだ」と語っていたというが、事実彼は、若い頃から、驚くべき読書家であり、該博な知識の持主であった。


 おそらく生涯最大の傑作である「わだつみのいろこの宮」(上)の背後には、このような深い教養があったと思われる。青木はこの他にも、日本の記紀の神話やインドの外道諸教派に題材を求めた作品を数多く残した(「黄泉比良坂」や「大穴牟知」など)。さらに、夏目漱石は『それから』のなかで、「いつかの展覧会に青木と云ふ人が海の底に立つている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思つた。つまり、自分もああ云沈んだ落ち付いた情調に居りたかつたからである・・・」と青木の「わだつみのいろこの宮」に触れている。

p143より
 むしろ、ある意味からすれば、神話や伝説の物語は、彼の異常なまでに奔放な幻想に養分を与えるものであったと同時に、造形表現においては、色彩の無限の展開のなかに溺れてしまう危険を持つコンポジションを救ういわばブレーキの役目を果たしたと言ってよい。
p145より
 事実、この「わだつみのいろこの宮」は、「海の幸」に比べれば、はるかに理知的な構成と内容を持っている。そのため、一般にはやや冷たい表現として受け取られ、「海の幸」よりは一段と劣るものと見なされているようであるが、その構図の緊密度においてまた色彩表現の華麗さにおいて、そして何よりもその表現の完成度において、むしろ「海の幸」を凌ぐ名作と言ってよい。しかも、画面全体をすっかり塗りつぶしてしまったようなその装飾的表現と、異常に縦長の画面という風変わりな構成と、当時呉服商を営んでいた福田家から借りて来た多彩なちりめんをモデルにしたという幻想的色彩において、それははっきりとギュスターヴ・モローなどの世紀末当時の世界につながるものなのである。


 最後に青木の生い立ちと生きた時代に触れる。彼は1882年、北九州の久留米において、旧有馬藩の士族であった家の長男に生まれている。これは何を意味しているのか。

p148より
 世紀末の芸術家にしても、あるいは耽美主義的ディレッタントにしても、当時の市民社会に対して背を向けること、すなわち反社会的な生活態度をとることを大きな特色としていた。(中略)だが、明治15年に生まれた日本のエリートにとっては、社会的責任を免れるということはほとんどできない相談であった。デカダンスは、ヴィクトリア朝末期や第三共和制の盛期のように、文化の爛熟しきった時代においてこそ可能であっても、あらゆる能力が「お国のために」吸収されるという体制ができ上がっていた明治時代の日本においては、芸術家といえども社会に対する責任を免れるわけにいかない。ましてその上、士族の家の長男に生まれ、大勢の弟妹たちがいるということは、それだけで、家族というものに対する責任も負わされることであった。そして、わが青木繁の場合は、まさにその典型的な事例だったのである。
p149より
 青木繁の場合は、『それから』の代助のように恵まれた境遇にいるわけではなかった。彼は長男として、父の死後全家族の面倒を見なければならない立場であり、しかも家庭も、自分自身も、貧困に悩まされ続けるという悪条件のもとにあった。彼は、一面においては「ダ・ヴィンチのような作品が一枚でもできれば死んでもよい」と考えるような芸術至上主義者であった反面、勃興期の明治人にふさわしく社会的な抱負を持っていたし、家族に対する責任も強く感じていた。
 彼は「『わだつみのいろこの宮』に就て」という論文中、芸術一般の社会的役割について「彼地(西欧)は種々の時代を経過して一歩一歩進み来つて今日に及んだもの日本は未だ前途に隆興期なる一つの高峻な峠を控へて居る事を忘れずに大なる抱負と努力とを以て大国民たるに恥ぢぬ品性と威厳とを有つ様に心懸けねばならぬ」という、デカダン派らしからぬことを述べているのである。
 著者はここに、青木繁という一個の天才の限界を見る。彼は、あらゆる意味で世紀末的特質を備えた芸術家でありながら、およそ世紀末的でない近代日本に生まれて来てしまったのである。天才児青木の生涯は、やはり日本の近代化が生み出した特異な悲劇にほかならなかった。
スポンサーサイト
COMMENT