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「男らしさ」とは自律すること
こういう男になりたい
勢古浩爾
2000

まえがきより
 わたしが生きてきたのは、人間としてであるよりも多く、やはりひとりの「男」としてである。たとえ「男の意味」は終わったとしても、「男」という存在は終わっていない。どんな時代でも男はやはり男として生きるほかはないのである。これは脅迫でも抑圧でもない。単純な事実である。とするなら、廃棄されるべきなのは愚劣な「男」という意味であって、求められるべきなのは、新しい「男」の意味なのではないだろうか。
 (中略)本書でわたしが試みたいことは、いま現在、この社会のなかで、「男」であることの意味を洗いなおし、そのなかで、「男らしさ」の定義をできるだけ新しいかたちで(しかもきわめて普通のかたちで)提示することである。

p37より
 「自分」とは基本的に欲望の体系であって、その場合の「らしさ」とは、その欲望の解放をしか意味しない。つまり、ただ自分のしたいようにしたい、というのが「自分らしさ」の本質なのだ。
 ここで筆者は、やや極例だが腐敗官僚やわいせつ教師を挙げて、彼らも自分の欲望に従って「自分らしく」生きている。とした。この「自分らしさ」を反措定する概念が「男らしさ」であり、「男らしさ」とは自律の原理である。自律であるからには、他人には強要しないし、他人を抑圧しない。"男の中の男"のように同類の中で群れることがない、"男の外の男"として、である。

p71より
 「いい男」が少なくなったのは、「いい女」が少なくなったからである。(中略)いまや男の顔は自分と異性にしか向いてない。自分の欲望を満たすことと、女にもてる(見られる)ことしか考えない男ばかりが増えたのである。
 「いい男」が少ないというのは、「いい政治家」「いい警官」「いい教師」が少ないということと同義であり、すなわち「いいおとな」も「いい子ども」も少ないということと同義である。ようするに、この国から「いい生き方」というものがなくなりつつあるのだ。

 著者は社会学者ではないので、統計データを駆使して「いい男」の総数を調べあげたわけではない。そんなことができるはずもないが、ただこのように言われると、確かにそうだな。と思ってしまう。それはオレの周りにも「いい男」と呼べる人間が少ないし、当のオレ自身も「いい男」ではないという自覚があるからだ。
 男も女も「いい男」であり「いい女」であることが必要ではなくなった。なんの得にもならないからである。
 (中略)目に見えず耳に聞こえない内面の価値などはほとんど見向きもされていない。目に見えないものは時間も手間もかかるうえに成果までが目に見えないからである。それにくらべて「かっこいい」こと「きれい」であることは手っとり早くて成果が覿面である。
 目に見える価値。耳が痛い言葉だ。オレはいまだに「目に見える価値」に右往左往しているし、それを利用している感じがする。たとえば、大した成果も準備もなくいまのところに就職できたのは、端的にオレが高学歴だったからである。逆に、いま一所懸命プラトンを熟読しているが、そういったものを上司が評価することはない。だが、結局のところ「手っ取り早くて成果が覿面」な事柄はリーズナブルだがつまらない、というのがいまの気分だ。ここで筆者は、外面ではなく内面の価値を高めよ、という陳腐な啓蒙をしているわけではない。

p96より
 もっと重要なことは、「外部の視線」によってもほんとうは「自己証明ができない」ということである。「男」も「女」も「自分」も「自己証明ができない」のだ。そこにはどんな確定的な認証も保証ももたらされないからである。にもかかわらず自己証明への欲求は止むことがない。なぜなら、人間は根本的に承認を欲する唯一の動物だからである。逆にいうなら、人間は自分を証明したがる唯一の動物だからである。だとするなら、男も女もその「矛盾」のなかで喘ぐのはあたりまえだというべきではないだろうか。
 いかにわたしたちが「他者の視線や承認に縛られ」ているかは、他者からの否定、無視、否認にさらされたときにもっともあきらかになる。自分が侮辱され無視され否定されるとき、わたしたちは他者からの承認をどんなに欲しているかを痛感するのである。

p117より
 結局、他人からの承認や否認や無視などの関係を何度でも自分のなかで濾過して、最終的には自分で自分を承認するほかないのである。ひとりよがりの自我肯定でもなく、「自分は自分である」という根も葉もない無根拠に逃げ込むのでもなく、「他者の視線」を取り込みながら、より柔軟でより寛容でより妥当な自己証明を、またより柔軟でより妥当でより強靭な自己承認を求めるしかないのである。
 「より柔軟でより寛容でより妥当な自己証明を、またより柔軟でより妥当でより強靭な自己承認」というのが実現するかどうかは不明だ。おそらくしないだろう。ただ、それを「求めて」生きていくしかないのだろう。おそらく、最も強靭な自己承認は、世界で一番好きな女に、世界で一番好きよ、男はあなたしかいないわ。と言われて一緒に生活することだ。それはほとんど奇跡だからだ。
 ここで、やや奇妙なキーワードだが、<中間性>という言葉が出てくる。

p191より
 なぜひとは「毎日金の心配や仕事や人間関係に気を使う生活は、むしろみじめである。高すぎず低すぎず、個の自由と生活の豊かさを保つ生こそ価値ありなのだ」と口ではいいながら、心の底ではその生活を憎むのか。
 それは居心地のよさに落ち込んだ「中間」の裏側にひがみとひけめが張りついているからである。それがじつは適当であり、よどみであり、停滞であり、没個性であり、ぬるま湯である、ということを知っているからである。それが自分の人生においては最もいい生きかただと徹底して望んだ<中間>ではなく、不承不承選ばされた「中間」だからである。
 それは躍動しない。よどみであり、腐食であり、死なのである。だからわたしたちは、「中間」のなかでもがく。つねに左右上下を窺っている。自分の「中間」は並の「中間」ではなく一味ちがう「中間」なのだとあがく。「中」は「中」でも、「中の上」だと自分を納得させる。
 <中間性>とは固定した階層でお場所でも位置でもない。その場、その時に、つねに最善を求める生きかたであり、その覚悟のことである。
 (中略)つねに「上下」はあり「左右」はあり「優劣」はある。「美醜」はあり「大小」はあり「高低」はあり「多少」はある。だが<中間性>とは、自分の今いる位置を、可能なかぎりの最善の判断によって得た<普通>と見定め、その相対的位置を絶対的位置であると決意し覚悟する、乾坤一擲の自己承認のことである。
 結びは凡庸である。だが、不承不承つかまされた「凡庸」ではなく、覚悟の上での<凡庸>だろう。人生に勝ち負けはない、真剣に生きたかどうかだ。や、やるべきことを一つ一つやっていくしかない。という、いつものあれだ。中学生の頃から耳にタコができている。だが、「つねに最善を求める生きかた」は、遥かソクラテス(プラトン)と繋がる。プラトンはあらゆる事物に普遍的なものを抽出した概念を"イデア"と名付けた。そのイデアの中でも、最高のイデアが「善のイデア」である。ここで最高のイデアが「最高のイデア」や「真のイデア」ではなく、「善のイデア」であることは注意すべきだ。
 ソクラテスは刑死の直前に、いま自分がこの椅子に座って死刑を待っているのは、骨格や筋肉、またはそれらを構成する物質の因果関係ではない。アテナイ人たちが有罪の判決をくだすことをより善いと思ったこと、それ故にここに座っているのをより善いと思ったこと、そして彼らがどんな刑罰を下すとしてもここに留まってそれを受けるのがより正しいと思ったこと、と述べている。つまり、ソクラテスにとって椅子に座って死刑を待つことが自分にとって最善であり、つねに最善を求めて生きるのが「魂の最終目的」なのだ。だが、人はこの苛酷な「最善」の追及に耐えられるのだろうか。
ショウペンハウエルの警鐘
uber lesen und bucher
arthur schopenhauer
1851

p127より
 読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移るとき、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。つねに乗り物を使えば、ついには歩くことを忘れる。
映画を「見る」ということ
黒沢清、21世紀の映画を語る
黒沢清
2010

あとがきより
 もう三十年近く前になるかと思うが、どこかのホールでブレッソンの『白夜』(1971)の上映会があり、その前のイベントとして蓮實重彦のトークがついていたのに行ったことがある。実際は蓮實さんのトークがメインで、上映はあくまで付随的なかたちで行われたのかもしれない。そのへんの事情はよく憶えていないが、私としては既に『白夜』は見ていたから、お目当てはトークの方だった。(中略)
 まずトークから始まった。蓮實さんは、これから見る人のことを気遣って、映画の内容の細部にあまり踏み込むようなことはおっしゃらなかったが、それでも確か「冒頭で主人公が橋の上から川に飛び込もうとしていますが、彼がどうやって自殺を思いとどまるか、よーく見ていてください」と締めくくってトークを終えた。一瞬私は「え?」となった。冒頭の主人公の自殺未遂は憶えていたのだが、彼がそれを思いとどまった理由が何だったのかさっぱり思い出せなかったのである。と、間もなく場内が暗くなって映画が始まった。すぐにそのシーンがやってきた。主人公が橋のたもとから川を見下ろし、やがて欄干に足を掛け、通行人の何人かが立ち止まってぼんやりとその様子をながめ、主人公はしばらく動かず、やがて足を下ろし、通行人たちは再び何事もなかったかのように歩き出し、主人公もおもむろにその場を立ち去り・・・私はあっけにとられた。主人公が自殺を思いとどまる理由がまったくないのである。しかし彼は確実にそうした。そして、それを周りの人々も確認した。人間が何かをする、周囲がそれに反応する、そこを撮影しさえすれば、「なぜ」という描写はまったく必要なく、誰も何の疑問も抱かずに次に進める。映画はどうやらこういう表現らしいのだ。蓮實さんが事前にそれを指摘したわけではない。蓮實さんはただ「よーく見ていてください」と言っただけなのだが、そこに何か途方もない映画の核心部分が顔を出しているのを、もろにその言葉は指し示していたのだった。
死に対するソクラテスの態度
phaidon
platon

p35より
 われわれは肉体のために、何かを真実にまた本当に考えることがけっしてできないのである。じっさい、戦争や内乱や争いでさえ、他ならぬ肉体とその欲望が惹起するものではないか。というのは、すべての戦争は財貨の獲得のために起こるのだが、われわれが財貨を獲得せねばならないのは、肉体のため、奴隷となって肉体の世話をしなければならないからである。こうして、これらすべての理由によって、われわれは哲学をするゆとりを失うのである。だが、なによりも悪いことは、かりにわれわれに肉体からの多少の解放が生じ、なにかを考察することへと向かったとしても、探求のさ中でふたたび肉体はいたるところに出現し、騒ぎと混乱をひき起こし、われわれを脅して正気を失わせる。その結果、われわれは肉体のために真実を見ることができなくなるのだ。いや、本当にわれわれに明確に示されているところでは、もしもわれわれがそもそも何かを純粋に知ろうとするならば、肉体から離れて、魂そのものによって事柄そのものを見なければならない、ということである。その時にこそ、思うに、われわれが熱望しているもの、われわれがそれの求愛者であると自称しているもの、すなわち、知恵がわれわれのものになるだろう。その時とは、議論の示すところでは、われわれが死んだ時のことであって、生きている間は知恵はわれわれのものにならないのである。というのは、もしも肉体と共にあればなにごとをも純粋に知ることができないとすれば、次の二つのうちのどちらかであるからだ。すなわち、知を獲得することはいかにしても不可能であるか、それとも、可能であるとすれば死者にとってのみである。なぜなら、死んだ時にはじめて、魂は肉体から離れ、自分自身になるだろう。
死の家の人間
the house of the dead
fyodor dostoyevsky
1862

p15より
 夕暮れになると、わたしたちはみな監房へ入れられて、朝までとじこめておかれる。わたしはいつも内庭から監房へもどるのが重い気持だった。それは細長い、天井の低い、息苦しい部屋で、脂蠟燭がぼんやりともっていて、重い、息のつまりそうな臭気がよどんでいた。どうしてあんな部屋に十年も暮らせたか、いま考えてみるとどうしてもわからない。わたしの寝床は板を三枚並べただけのもので、それがわたしの場所のすべてだった。わたしの監房だけでそうした板寝床に三十人の囚人がおしこめられていた。冬は早く監房の戸がしめられて、みんなが寝しずまるまで、四時間は待たなければならなかった。それまではー騒がしい音、わめきちらす声々、哄笑、罵り、鎖の音、人いきれ、煤、剃られた頭、烙印を押された顔、ぼろぼろの獄衣、すべてがー罵られ、辱められたものばかりだ・・・それにしても、人間は生きられるものだ!人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。